尋ね見る つらき心の 奥の海よ 汐干の潟の いふかひもなし    新古今和歌集 藤原 定家
憂しとても 身をばいずくに 奥の海の 鵜のゐる岩も 波はかくらむ 続古今和歌集 順徳院
尋ねても あだし心の 奥の海 荒き磯辺は 寄る舟もなし      続後拾遺和歌集 常盤井入道
夜をさむみ つばさに霜や おくの海の 河原の千鳥 更けて鳴くなり 夫木和歌集 参議為相卿
ゆる夜は いくへか霜も おくの海の かわらの千鳥 月恨むらん 夫木和歌集 従二位家隆卿   
奥の海 汐干の潟の 片思ひ 思ひやゆかむ 道のなかてを      
夫木和歌集 読み人知らず
我が為は つらき心の おく海の いかなる浦の みるめかるらん  続後拾遺和歌集 後鳥羽院
よを寒み つばさに霜や をくの海の 人に知られて しつみはてなん 新千載和歌集 前中納言為相
をなしくは おもふ心の 奥の海の 人にしられて しtみはてなん  新続古今和歌集    左大臣
                                   

   牧山から見下ろした奥の海
 尾駮の牧同様奥の海も二つの説があり青森県の陸奥湾をしても奥の海と言うのである。陸奥の最北の海は最も奥に有る海なので奥の海と呼ばれても道理である。
   奥の海や 蝦夷が岩屋の 煙だに 思へばなびく 風やふくらむ   為相
ここ宮城県牡鹿半島の付け根の牡鹿郡の奥の海は近世以降は万石浦とも呼ばれている。2代藩主伊達忠宗が遠島と呼ばれた牡鹿半島へ狩猟に行く途中奥の海を見て『ここを干拓したら万石の米が取れるだろう』と語った事により万石浦と名付けられたという(1649年 慶安2年)。勿論米ばかりでなく奥の海は古来魚介類の宝庫で1783年(天明3年)の牡鹿状には「奥乃海 万石乃浦ニハ諸国無双名物牡蠣為御用御留也、同蟶貝 辛螺 海鼠巾子 蟹 蠑蜊 蛤 帆立・・・日本一乃塩田毎日一千俵煮」とありこの海の恩恵を記している。それは当然縄文時代も同じで沿岸には青木浜遺跡 大浜遺跡 梨木畑貝塚 胡桃浜貝塚 一本杉貝塚 垂水貝塚など多くの縄文人・弥生人・蝦夷が豊かな生活を送った所でも有。貝塚からは蛤やアサリの分厚い貝層が見つかり、奈良時代の製塩遺跡・蕨手刀・埋葬人骨が発掘されている。陸奥にあっても温暖な気候と穏かな浅い内海はミニ地中海や瀬戸内海の様に人々の生活の場として最適の場所だったに違いないのです(宮城県の歴史 平凡社)
 越後新発田藩久米弥五兵衛が1817年同藩滝沢休右衛門に殺害された 長男久米久太郎は約30年全国を探し回り僧に変装し「黙昭」と名乗っていた仇敵を苦労の末探し当て安政10年10月9日ついにここ万石浦祝田浜にて討ち果たした 文化14年の事件発生から41年目の事で史上2番目に長い仇討で有名である(説明板)
久米久太郎 日本最後の仇討ちの碑
県道2号線万石橋を渡って直ぐ右側に建ってりる
                                   
             奥の海