我が袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らめ 乾く間もなし        千載和歌集 二条院讃岐
沖の石の 波の騒ぎに せめられて たえがたき世を なほすぐすかな      夫木和歌集 藤原為家
夜もすがら 袂にはらふ 白露の 沖ゐの里に 月を見るかな          夫木和歌集 第三のみこ
おきのゐて 身を焼くよりも 悲しきは 都島べの 別れなりけり          古今和歌集 小野小町

宮城県多賀城市2丁目    二条院讃岐の歌 意訳
私の着物の袖は、引き潮のときにも水面に現れない沖の石のように、人は知らないでしょうが、あの人を思う恋の涙のために、乾く間も無いのです。
奥州観蹟聞老志に「…同郡(宮城郡)八幡ノ農家中ニ小池有リ。池中奇石らいらい佳状愛ス可シ。州人古来、称して興ノ石ト曰フ。奇絶盆池ノ如シ。池中ノ乾隅ニ水脈有リテ出ズ。是レ即チ興ノ井ナリ・・・」と記されているが 農家を住宅と置き換えれば全くここ書かれた通りである。多賀城市八幡にある。有名な末の松山を下る事僅60mの至近距離にも驚く。周りある2×4工法の近代住宅のど真ん中に直径10m程の巨大盆栽池(沖の井)があると想像してもらえば納得がいくかもしれない。然もこの井の中にある岩(沖の石)は確かに海岸にある岩なのだ。この辺りには海を連想する浮島・十符の浦・野田の入江とか今は既に立派な内陸で住宅地の中にある歌枕があるのと同じだろう。ここは相当以前は海岸だったに違いないのです。ここだけに偶然にも取り残された自然の数千年の造形を見ると、周りにある人間の造った数十年の造形の貧弱さを否応なしに感じる歌枕である。造形美においてコンクリートが自然の岩に絶対勝てない現実を目の当たりにさせる歌枕です。目の前の以前は農家と思しき旧い家の奥さんに「昔興井守がいてこの沖の石を守っていて其の子孫がいると聞いたが・・・と尋ねたら奥さんは市で管理していますから・・・」と意に反した返答には少しがっかりした。二条院讃岐(1142〜1217年)も今ならばとても 『あなたの事を思うと 引き潮の時でさも見えない沖の石のように 人にはしられないけれども涙で乾くひまもありませんよ 私の袂は』などとても詠めなかったことでしょう。彼女の父はあの鵺退治の伝説で有名な源三位頼政である。彼女は陸奥守藤原重頼と結婚しているのできっとここ多賀城にも来たに違いない。ところがもう一つこの沖の石を名乗る所があるのです。福井県小浜市の若狭湾沖の本当に海中にある小岩なんだそうである。多賀城市史によると元来沖の石は普通名詞で歌名所ではないのだそうだ。ところが歌の方が余りに有名になり固有名詞化すると、それをおらが地とする歌枕特有の現象が起きるのだそうなのだ。だからあちこちに沖の石が出来ても仕方が無いのだろうが 陸地にあっても沖の石 宅地の中の海のほうが個性的で意外性があり そしてすぐ目の前 手の届く所にあるのが魅力的だ。
(平成15年4月23日)(参考 多賀城市史) 
     二条院讃岐は出生年月ははっきりしないが凡そ1141〜1217年頃と言われるている 始めは二条天皇 後に後鳥羽天皇の中宮任子に仕え長い間歌人として活躍した 代表作がこの沖の石の歌で百人一首にも採られ 別名沖の石の讃岐とも言われて いる 又恋の歌にも
明けぬれど まだ後朝に なりやらで 人の袖をも 濡らしつるかな
等がある ところで和泉式部の歌に
  わが袖は 水の下なる 石なれや 人に知られて 乾く間もなし 
の本歌取りとも言われているが・・・一度は讃岐の心を尋ねて見るのも良いでしょう
左端 右端屋根の上に少し見える松の木が末の松山の松

                                                         沖の石(井)