牧山についてもなかなか分かりづらいのです。先ず石の 尾駮の「まき」もここに『まき』が多いのも偶然ではないのでしょう。牧山の「まき」もまた然りである。零羊崎(ひつじさき)神社の栞によると神社は1800年前の応神天皇2年に東奥鎮撫のため 牡鹿郡龍巻山に涸満瓊別神(ひみつにわけのかみ)を祀ったのに始るとある。元々は龍巻山でありその後龍が取れ巻山となり牧山となったという。神社の下の牧山市民の森に『魔鬼山寺跡』があり、蝦夷征伐に来た坂上田村麻呂が蝦夷の妻魔鬼女を殺しその供養と東奥鎮護の為聖観音を祀ったとある。観音堂は798年(延暦17年)建立したと伝える(いしのまきの歴史)。巻は前述の巻石の渦のほかに中世以前は北上川が対岸の湊村に突き当たり右折して海に注いでいたがそこに河水に淀むところが出来て渦をまいていたので尾淵の巻 或いは藤の巻きの地名を残した(宮城県の歴史 平凡社)と言う尾駮の牧の地は湊村と呼ばれた地区にある。此の湊からしても尾駮の牧は牧場ではなさそうである。古来「湊」と言えば北上川を挟み東側を湊 西側を石巻と呼ばれていた。古代陸奥の最も興味ある記述が日本書紀の仁徳55年紀にある。『55年蝦夷叛きぬ。田道を遣わして撃たしめたまふ。即ち蝦夷の為に敗られて伊寺水門(いしのみなと)に死ぬ。時に従者ありて田道の手纒を取り得て其の妻に与ふ。乃ち手纒を抱いて縊死す。時の人聞きて流涕す。是の後に蝦夷亦襲ひて人民を略す。因って田道の墓を掘る。即ち大なる蛇有りて目を発瞋(いからして)して墓より出でて咋ふ。蝦夷悉く蛇の毒を被りて多く死す。唯一,二人免るるを得たるのみ』亘理の歴史 亘理町)。何と生き生きした描写でしょう。勝者の記述であるので最後には結局蝦夷を打ち負かした事になるのは仕方が無いでしょう。ただ政府軍と言う人力ではなく大蛇の力に頼っている事は、蝦夷が非常に強力だった証拠に違いない。注目すべきは記された伊寺水門こそ現石巻の湊あると言う事です。仁徳55年と言うと西暦368年頃の事ですよ。北関東の豪族 有名な上毛野田道将軍がここ石巻で蝦夷によって返り討ちにあったのです。勝つも負けるも皆一生懸命だったのが伝わってきますね。更に陸奥の官人として最初に史料にでるのが陸奥守上毛野小足である事からして、上毛野氏は古代陸奥の初期に組織的に蝦夷ととかかわった最初の豪族ではなかったか。毛野(けぬ)とは今も群馬を上野 栃木を下野の名で残り、鬼怒川も本来毛野川から来ているし両毛線なる鉄道もその名残でしょう。又陸前石巻吉野先帝碑孝大槻文彦著)では『伝エテ云フ 武甕槌、経津主ノニ神、船ニ乗リ、初メテ此地ニ来タリ、大碇ヲ捲キテ之ヲ投ズ。因リテ其地ノ名ヲ石巻と曰ふ』とあり 実に「巻 牧には諸々の先人の思い込みが込められているのです。吉野先帝御菩提碑とは後醍醐天皇崩御の報に接し菩提を弔う為の板碑(1339年 延元4年)で牧山の麓の多福院にあるし、又あの建武の中興の護良親王の埋葬地の伝説がある一皇子神社も近くにあるのです。とても此神聖なる地が牧場とは思えないのです。結局 尾駮の牧 とは何の事やら不明のままなのです。この様に石巻は現在から古代に至るまで深い歴史の魅力的町なのです。   霊蛇田道公墓(くしひのおろち田道公の墓)
石巻で戦死した将軍上毛野田道に関するものと思われる古碑が禅昌寺で享保元年(1800)に発見された 江戸後期塩釜神社神官だった藤塚式部の制作とされている (ネットより拝借)

金華山道標
石巻市内永源寺まえにある
至る所にあるこのような碑は金華山信仰がいかに一般市民にポピュラーであったかの証左でしょう
            
              尾駮の牧其の2