補陀落や 浄土の旅を 陸奥の 名取の山に うつしてぞみる   御詠歌

名取の郷の西部にある穏かな丘陵地で高舘山 那智山とも言う。名取老女の信心深い信仰心が西部に横たわる僅か200m足らずの丘をして峻厳なる紀州熊野連山を模した丘陵としてしまったのである。本物の紀州熊野連山は『熊野にまいるには紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば紀路も伊勢路も遠からず』(梁塵秘抄)と逆説的に記されるほど険峻で難渋難儀な地であった新幹線の今日でさえあの紀伊半島への東北からの旅はやはり遠くかつ遥かである。然も紀伊半島は日本一の降雨量と高温多湿地帯にある奥深い山水幽邃の聖地なのである。神武天皇東征では難波潟で長脛彦に敗れた天皇軍はここ熊野灘へ迂回して熊野から八咫烏の道案内によって大和征服を果たしたいう上陸の地でもある というように日本の歴史と共に由緒ある地なのだ。補陀落とはインド南端にある八角形の島で観音様の住む極楽浄土の地である。そして熊野灘の那智勝浦は小型の木造舟に乗った行者が曳航船に曳かれ沖に出て綱を切られ見送られる。中には108つの石を巻き付けて生還を防止した者もいたという補陀落渡海の中心地だったのです。極楽浄土への熱望は今では全く信じられないですね。 中には琉球に流れ着いた者もいたという。 話はそれたが然し年老いた名取の老女にとって聖地熊野に行くには余りにも遠く老いてしまったがその信仰心は衰える事を知らず止むに止まれぬ気持ちがとうとうここ名取の山に熊野に似せて名取熊野三社を建立してしまったのです。温暖 平坦且つ穏やかな山 川 海に恵まれた名取はまるで陸奥の補陀落浄土に相応しい地であり陸奥の熊野信仰の中心地となったのだろう。インド南端まで浄土の旅をせずとも名取の山でも浄土気分が味わえると言う常世の地です
(平成14年9月29日)(参考 探訪神々の故郷 小学館)
                  名取の山                                    
  名取の山(高舘山)山頂にある大館城入口
 
遥拝所に立っている この名取りの山に藤原秀衡建造による高舘城があったという 
  追分石にはいまくまの(今熊野)・たうそ神(道祖神)みち すがう(菅生) ・川さき(崎)町・村田町みち と彫られている   追分石にはせんたい(仙台)・中田町・ゆり上(閖上)・ました町(増田町)みち 享保2年 丁丙年 とある
  右 熊野那智神社遥拝所  旧東街道(現県道39号線)と県道名取村田線(県道118号)の交差点にある ここは五方の辻とも呼ばれ右手の道は名取の山の那智大社の表参道に通じている 背景の山が名取の山(高舘山)である  上の追分石はこの遥拝所にある  追分石の享保2年は西暦1717年であるが当たり前だが今の地名と同じなのはなにか時代を身近に感じました  大館城と高舘城が同一か別物かは勉強不足で不明
 名取の山並 
紀州熊野連山には及びももしないけど 穏やかで何時でも誰でも普段着でも登れる常世の山だ 名取市西部にある高舘山(名取山) 標高僅か200m足らずの山である  年老いた女性の選択だけに名取熊野那智大社も女性らしい穏やかな山に選ばれたのかも知れない