道とほし 歳もやうやう 老いにけり 思ひおこせよ 我もわすれじ       袋草紙 藤原清輔
道とほし 程もはるかに へだてけり 思ひおこせよ 我も忘れじ       新古今和歌集 神祇歌

  熊野神社(旧新宮社)鳥居にある熊野社 
名取市高館熊野堂

   名取老女の往生の地 往生院があったと言われる所 前方の家の森が有名な大門山中世板碑群があるのだがとても入れなかった 近くの新宮寺のそばにある
名取熊野三社
  
 熊野信仰が全国に及んだのは平安末期といわれる。”蟻の熊野詣で”といわれ上皇から一般庶民に到るまで無数の人々が一切衆生を救う神仏混合の補陀落浄土信仰として熊野連山への参詣をめざしたという。(道 同朋社) 例えば後白河上皇は34回 後鳥羽上皇は28回も参詣し この時代の行幸は100回以上に及ぶという。その他妻子を捨てた佐藤憲清(西行) 人妻袈裟御前を誤って殺した遠藤盛遠(文覚)等など無数の有名無名の熊野道の行列はまるで”蟻のとわたり”の体をなしたという。そういう熊野信仰全盛の折 ここ陸奥名取りの里に一人の老女がいた。彼女は熱心な熊野信仰の信者で毎年紀州熊野に参詣していたが 歳のため遠い紀州までは行けなくなったので 名取りの里に紀州熊野の地形をイメージ出来るところに熊野三社を勧請した。保延年間(1135〜1141)陸奥遊覧の旅にでる熊野の山伏が暇乞いに紀州熊野の証誠殿に行ったところ『それを名取に住む老女に渡してくれ』という神のお告げを受けた。それが『道とほし 程もはるかに へだてけり 思ひおこせよ 我も忘れじ』と書かれた梛木の虫食いの葉があったと言う。山伏がこれを以って名取の里に行き夢のお告げを語ると老女は感激の涙で二つの袖を濡らしたという。そして山伏を紀州熊野に似せて勧請していた本宮・新宮・大社に案内した。そこで老女が臨時の幣帛をささげ祭文を唱えると 熊野権現の使者である護王善神が現れ老女の頭に下りて光彩を放ったので人々大いに感激したと言う いわゆる”名取老女物語”である(よみがえる中世 平凡社)。この時代1052年(永承7年)ごろは誰言うと無く 仏の世も遠く隔たる末法の世に入り 仏の教えも 修行も役立たず天変地異 戦争 破壊に満ちた時期入る末法思想に満ちていた。こんな不安な時代に紀州熊野本山に行けない事は例え歳のためとはいえ大いに不安だったのではないか。その執念が弱い一人の老女の細腕をして地元に紀州熊野の分霊社をこしらえてしまったのだろうか。名取川を熊野川に 仙台湾を熊野灘に 名取山(高舘山)を熊野連山にみたてた名取熊野三社は陸奥一の熊野信仰本山をなしている。名取熊野三社は東山道が浜街道の玉前駅分岐点から別れる古道”東街道”沿いにあり 又名取から出羽に向う出羽街道と東街道の分岐点にも近い古来交通の要所であった事がわかる。私も紀州までは遠くなかなか出向けないのでこの際初めて参拝させて頂いた次第である。確かに当時末法の時代のみならず末法の世に近い現代人も 『熊野古道』にならい『東熊野古道(東街道)』を徒歩で三社を歩くのもコンビニな熊野詣を満喫出来るだろう