惜しめども とまりもあへず 行く春は 名古曽の山の 関もととめず        亭子院歌合せ

この関は名古曾の関・勿来の関・勿来曽の関・左右の関・惣の関・秀衡の関などと呼ばれ中々紛らわしく賑やかだ。純粋に蝦夷対策として西暦400年前後に設置された福島県にある白河の関 勿来の関などの本家歌枕としての哀愁 郷愁 ノスタルジーには及ぶべくもないが 古代末期に於いて興味ある地点にある関ではある。宮城郡利府町史によると勿来の関は3っつあるという。茨城常陸の国 福島石城の国 宮城陸奥の国のここ利府である。蝦夷南下厳禁の来る勿れの関は実に大和朝廷の北進と共に北に移動しているのが非常に興味深いのです。次第に追い詰められていく蝦夷の悲惨さが目に浮かぶ関なのです。4〜5世紀に設置された常陸・岩城の勿来の関に対して 利府の勿来の関は7〜8世紀で古代末期には名前だけであろう といわれる。この関は古代東山道 中世奥大道が岩切で奥の細道から分岐・北上して来てこの地点で県道8号 県道40号のY字路になる。右松島 左江刺・胆沢・平泉・津軽である。だからこの関を左右(そう)の関とも云われたと言う。それが惣の関になったとも書かれている近くの多賀城には式内社陸奥惣社宮がある。この惣とも関連があるかも知れない。広大な仙台平野もこの辺りが北限でこの関以北から丘陵地帯になっていく。この関の直ぐ目の前に惣の関ダムがありそこからささやかな勿来川が流れている。このようにダムがあることがいかにここからが険しい東山道の入り口かが想像出来るのです。白河の関 勿来の関の様に知名度は全くなく しかも場所も盲腸の様にとりの残された所にあり人目には付かない。それだけに一層哀愁と郷愁を誘う関である今この直ぐ上を素晴らしい県道40号線が現在の東山道として北上している. (平成14年12月24日)(参考 十符の里のさんぽみち 利府町)
       勿来川
細い小川の名前だがいわれのない中央政府の蝦夷えの差別の名前である
 この川を越えて南へは来てはならないと言うのです 橋の名は惣の関橋となっている
左 名古曽神社の碑 掘られてる文字は勿来曽神社となっている
ご覧の様に関とはいえ所謂関の雰囲気はない 江戸時代に伝右衛門なる人物が願主となって昔からの伝言により建てたものという 
    名古曽の関(勿来の関)