あけくれば まがきの島を ながめつつ 都恋しき 音をのみぞきく   新勅撰和歌集   源 信明
うしろめた 末の松山 いかならむ まがきの島を 越ゆる藤波                源 信明
面影の なほ忘られで 見ゆるかな まがきの島と むべもいひけり               能因
さてもなほ まがきの島の ありければ 立ち寄りぬべく 思ほゆるかな   後撰和歌集 源 清蔭
まがき島 たが結ひ初めし 岩つつじ いわほに残る 磯の藤波         回国雑記  道興准后
卯の花の 咲ける垣根は 陸奥の 籬の島の 波かとぞ見る           拾遺和歌集 読み人らず
荒波の まがきの島に立ち寄れば海人こそ常に 誰と咎むれ                 源 重行
陸奥の まがきの渡り 磯なめて わかめ刈るりぞ 海人もゆきかふ         海人平子良集
夕闇に 海人の漁火 見えつるは 籬の島の 蛍なりけり             夫木和歌集  曾禰好忠
が背子を 都にやりて 塩釜の まがきの島の 松ぞ恋しき           古今和歌集 東歌
卯の花の 咲ける垣根は 陸奥の まがきの島の 波かとぞみる           拾遺和歌集 詠み人知れず

この島には塩釜神社境外末社の曲木神社がある この嶋の嬉しい所は観光客に媚びない事だろう 客に媚び 年中無休 24時間営業の多い昨今この嶋は毎月1日にしか嶋に入れない事だ 普段は鍵がかかっていて入れない この頑固さが希少価値だ

 
籬の島

 芭蕉もその奥の細道で末の松山を見たあと『・・・・塩釜の浦に入相の鐘をきく。五月雨の空聊かはれて、夕月夜幽かに、籬が嶋もほど近し』と書き込んだこの籬嶋は平安時代からその名を都に知られていた。清少納言の枕草子で 平安時代の謂わば行ってみたい「嶋ベスト7は」(浮島 松が浦島 籬嶋 八十島 たはれ嶋 みつ嶋 とよらの嶋)で見事に撰ばれた人気の嶋なのだ。八十島(浮島 八十島は島にあらず と彼女は云っているが)を松島とみればなんと此処宮城県が4っつも撰ばれているのはいかにこの辺りの海岸線が素晴らしかったかを物語っている証だろう。それ故古今和歌集 続後撰和歌集 新勅撰和歌集 続古今和歌集 夫木和歌集等にこの周囲僅か155mの小島が宝珠の嶋の如く詠まれたのだ。江戸時代に書かれた伊達藩の観蹟聞老志には『千賀の浦汀十町余、小島有り、所謂間垣嶋是也』とある。渚から籬島まで凡そ1,100m(十町)もあったと書いているが今埋め立てにつぐ埋め立てのため籬嶋は陸地と目と鼻の先となってしまった。この様に歴史的名勝の地が大正以降市街地造成 商港 漁港の修築 埋め立てにより数多くの島々が消えていった云う。そのため昭和38年にはこの籬嶋を含む湾岸一帯が国の特別名勝区域から解除されてしまったと言うのです。真に惜しい事をしたものである。富国強兵 殖産興業 高度成長時代の犠牲となった悲劇の生き残りの嶋がこの籬島ただ一つである 現代日本人の文化水準のレベルを表しているようだ。
(平成15年7月26日)