陸奥に ありてふ関の 岩手おもふ 心の奥を 誰が知るべき           夫木和歌集 中務卿宗尊親王

あずま路や いはての関の かひもなく 春をば告ぐる うぐいすの声        夫木和歌集 藤原 定家

人知れず 袖の浦には 波かけて いはての関に 日数へにけり                    如覚

ひとめ守 いはての関は 固けれど 恋しき事は とまらざりけり           新勅撰和歌集 源 俊頼

あずまやの かやかのきはの しのぶ草 岩手の関に かかるこひすや               俊忠集 

いはての関については諸説あり曰く中々定め難
いのです。ここばかりでなく『いはて』の名のつく歌枕が幾つかあるがどうも素人の私にはわかりにくいのです。岩手県なのか岩出山町なのかはっきりしないのです。いはでの里は兎も角、いはでの野 いはでの岡 いはでの山 いはでの森 いはでの渕 みちのくいはで等である。博識の方のご一報をお待ちする次第です。ここ『いはての関』についても奥羽観蹟聞老志(佐久間洞巌)は南部領岩手郡寺田村とし、岩手県郷土史・大日本地名辞典(吉田東伍)では岩手郡渋民村 封内風土記(田部希文)では南部領岩手郡としていてどちらかと言うと岩手県に分があるのだが、鳴子町史の『尿前の関』を『いはての関』とする遠慮がちな主張に私も意気に感じて玉造郡に載せて見たわけである。鳴子町史によると岩手の関は秋田の元慶の乱
(878年)の頃で出羽北荻(蝦夷)の防衛のために鳴子町花淵山(989.4m)の麓の「岩手の森」(現尿前の関の西方5丁目辺りにあったと言う)に兵を配置して蝦夷の監視に当たらせたのが始まりと言う。もともとは平泉秀衡の時代に岩手の関は「陣が森」とも呼ばれ平泉方の
国境警備兵が多数詰めていたという事である。 更に大崎氏・葛西氏時代は小屋館と言い伝えし也 と代々尿前の関守を勤めていた遊佐家が書き残した「岩手関由来書」に記していて実際山形県境に其の名が残っている。そして仙台伊達藩政時代に尿前に移され『尿前御番所』と改称され現『尿前の関』となったのであるという(元和末年)。なかなか面白い推察である。古来ここは出羽・陸奥の重要な国境だったのです。尿前の関を全国的に知らしめたのはやはり芭蕉の奥の細道によってでしょう。彼は1689年(元禄2年)5月15日鳴子村尿前の関を越えた。「・・・なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越えんとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関を越す」とあり散々役人に油を絞られたのは皆さんご承知の通りです。曾良旅日記にも『断六ヶ敷也(ことわりむつかしきなり)』と書いている。芭蕉は通行手形不所持による関越の難儀を書いているがもっと面白いのが天野桃隣の陸奥千鳥の記載である。

尿前の関跡  奥の細道に『関所有、断六ヶ敷也、出手形ノ用意可有之也』と書かれてる尿前の関跡 今に残るその細道で現在4軒のみの集落は全員遊佐氏を名乗っている
岩手の関