苔むさば ひろひもかヘむ さざれ石の 数に皆とる 千代はいくつぞ   源 重之和歌集

あまり聞き馴れない地名である 宮城県柴田郡川崎町支倉地区にあるのです。ここ柴田郡川崎町は905年(延喜5年)の延喜式によると名取から出羽に出る出羽街道にあり馬十匹の駅が置かれていた小野駅があった所のです。当時名取・玉前(岩沼)が5匹だから現在とは違い重要な駅家だったと思われる。ここは今は釜房ダムで水没した下窪遺跡からは何と『九九 八十一』と言う掛け算の九九の漆紙文書が発見されたのは有名だが、それよりも伊達藩主伊達政宗の命により、スペイン・ローマに渡ったあの支倉六エ門常長の生まれ故郷に近い所と言ったほうが分かりやすいでしょう。碁石と言えばここよりむしろ岩手県大船渡市にある碁石海岸のほうが有名だろう。丸で碁石の様な丸い小石が拾える所から名ずけられたが、其の上断崖 洞窟 洞門 小島 奇岩で知られた観光スポットである。それに比べてこちらは名取川の支流の碁石川から名取石、いわゆる文石が取れそれが朝廷に献上された事があるらしい。この時陸奥守源 重之が一石一石に三十一文字を書いて献上したと言うのです。この石が恰も碁石に似ていたからこの地名が出たらしいが観光的に見るべきものがあるわけでない山間農村地なのだ。これとは別に町史にはこの村にある五つの石 笠石・双つ石・碁盤石・疣石・弥三郎石を以って五石 つまり碁石になったとしてるのです。この源 重之と言う36歌撰の1人は清和天皇の流れを汲む人物だが藤原家全盛の時代に入り中年以降余り官途に恵まれず、肥後・大宰府など地の果てに赴任、最後はこれまた地の果て陸奥守でこの地で凡そ65歳位(1000年前後)で没するのです。サラリーマンならリストラを迫られている様なものだったのだろう。お蔭で陸奥では彼のお陰でとても詠まれそうも無い所でも歌枕の地になった所も多数ありその貢献は大きいのです。(平成14年9月13日)
(川崎町の文化財 川崎町 平安時代史辞典 青根洋館資料 宮城県の不思議事典新人物往来社)

 新羅の里 
古くは長谷倉とか馳藏とも呼ばれ現在柴田郡川崎町支倉地区と呼ばれている 新羅国は4世紀半ばから935年迄朝鮮南部に栄えた国 前9年の役の時は既に高麗国になってるが朝鮮一般を新羅人と呼んでいたのでしょう  後三年の役で苦戦してる兄義家の援護に陸奥に向かった折新羅三郎義光は新羅の帰化人37人を引き連れ20人を柴田郡槻木町に残り17人を此の地に住まわせたのだ それ以来この地を新羅の郷と呼ばれるようになた 新羅三郎義光が近江の国新羅神社で元服したのに因むが彼と新羅人とはこれは偶然なのでしょうか 
 

常長の墓のある万福寺の背後のある上楯城跡が支倉歴代の居城である
左 現在の新羅の郷支倉地区



碁石