初君旧歌碑(1710年代建立) 聚感園内
 初君新歌碑(1802年建立)愛宕神社境内

 藤原為兼・初君歌碑 聚感園内
寺泊佐渡遠流(島流し)の風待ちの地である 藤原(京極)為兼と遊女初君の別れの歌碑がある 
もの思ひ 越路の浦の しら浪も たちかへるならひ ありとこそ聞       初君

あふことを 又いつかはと 
 ゆうだすき かけし誓いを
    神にまかせて
 為兼
5年後許されて都へ還った為兼の勅撰集である玉葉和歌集に彼女の歌を載せたのである 越後の人で勅撰集の載せられたのは彼女一人である(説明板) 彼はまた正和5年(1316)鎌倉幕府によって土佐国へと2度も遠流されている
荒海の いかなる魚の 
 餌ぞと身を なさばや思ふ 
     頃も忍びし

上 三枚画像

越ノ浦神社
 残4枚は順徳天皇の史跡である 頼朝・頼家・実朝が亡くなり源氏本流の血が絶えたすきを狙い北条鎌倉幕府打倒をめざし朝廷権力の復活をめざし父後鳥羽上皇と共に挙兵した承久の乱(1221)が失敗したのである その結果父後鳥羽上皇は壱岐の島に遠流となり順徳天皇は佐渡へと流されたのである ここ行宮の地の数か月の間に詠んだのが下3首の御製

たのめすは つらきならひを 思はまし  
       なかなかなりや 松に吹く風

露も袖に いたくな濡れそ 秋の夜の  
      ながき思ひは 月に見るとも

月見ても 秋のあはれは あるものを   
         しづ心無く うつ衣かな

碑の奥にあるのが越の浦神社順徳天皇帝の御神霊を奉祀したもので佐渡の真野御稜に正対している 仁治3年(1242)上皇崩御の悲報に接した寺泊の豪族五十嵐家が祠を建てたのに始まる 上皇は百人一首にも彼らしい歌がある

人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 
      世を思ふ故に もの思ふ身は

ももしきや 古き軒端の しのぶにも
       なほ余りある 昔なりけり

              
下 三枚画像
  






国上山 其のⅤ   
  順徳天皇御霊地跡の碑   順徳天皇御製碑   順徳天皇行宮遺跡保存碑 聚感園内
 照明寺密蔵院 良寛が45・70・72才の三度住んだ所でここで托鉢 掃除 詠歌の悠々自適の生活をした 昭和33年に再建された  照明寺は寺泊屈指の真言宗大寺である  ここの歌碑には
おほとのの はやしのもとを きよめつつ きのふも けふも 暮らしつるかも
とある