東善寺住職で作家の村上泰賢氏は『東山道官軍のとった行為は小栗主従の処分が終わると官軍は高崎・安中より商人を呼び小栗及び家臣等の家財道具一切を没収競売に付してその軍資金とし丸で強盗殺人と同じだ』と云っていたのが印象的だった 一言で国を滅ぼすのは「どうにかなろう」の一言なり 「幕府が滅亡したるはこの一言なり」の彼の言葉に 元経団連会長の故土光敏夫氏は どうにかできないのは能力の限界ではなく執念の欠如だ とも述べている 又上野介は 幕府の運命は尽きるとも日本の運命には限りがない とも述べ近代的・普遍的思想の持ち主であった 大隈重信は後に『彼は殺される運命だった 何故なら新政府の近代化はそっくりそのまま小栗の構想を模倣したものだったから』と語っている つまり明治新政府は彼の功績を抹殺し新政府の功績としたからである
沢渡神社と万葉歌碑
 上は歌碑の脇に立っている説明板である 吾妻郡中之条町沢渡温泉と云う不便な山中の温泉地にある神社であるが果して万葉の時代にこの地を左和多利の地として詠まれたかどうかは疑わしいいでしょうがそれも歌枕の楽しいところでしょう  和歌の大意として
 沢渡の若い女性に行き会いながら乗ていた馬の足の歩みが速いので言葉もかけずに来てしまった 
と書いてある
 神社の 下に沢渡温泉があるので古来湯治客の参拝で賑わっていたそうです
 小栗上野介斬首の地碑 烏川の河原
左の烏川の碑には『偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる』と彫られている  慶應4年3月1日権田村東善寺に隠棲していたが 同(1868)4月4日尋問や取り調べもなくなく問答無用に近くの烏川で斬首された 彼の首実検に立ち会ったのは官軍の東山道鎮撫総督で500円紙幣に乗った岩倉具視の3男具定(17歳)・4男副総督は具経(16歳)・参謀は100円札紙幣にも載ったあの板垣退助である (小栗上野介 平凡社)➡右へ
幕臣小栗上野介の墓碑と胸像 東善寺
安中市から左和多利の万葉歌碑へ向かう国道406号を上る途中の倉渕町権田の東善寺に幕末の隠れた偉人の墓があった 罪なくして一切の弁明の余地もなく家臣3人と共に烏川の河原で斬首された人物です あの近藤勇にも尋問弁明の余地があり又榎本武揚・鳥居圭介ですら新政府の役人に任用されてるにも拘らずである 幕末・維新の激変の中歴史に名を残した多くの人物の中で知名度は知る人ぞのみ知る人物だが司馬遼太郎氏が明治の父と称した人物である(小栗上野介平凡社)
 
左から➡彼は日米修好通商条約批准書交換の為渡米し任務を終えて帰国は大西洋・インド洋を経て帰国した それによりその後外国・軍艦・江戸町・歩兵・陸軍・勘定の各奉行を歴任しフランスと結んで幕府の財政改革・洋式軍隊の創設・最たるものは横須賀製鉄所(後の海軍工廠で当時東洋一)作った 然し薩摩長州の東征に対しては主戦論を唱えたため勘定奉行を罷免され