釣り舟の たよりあまたは すぎぬれど 音無の浜 なにかうらみん        千頴集 別田千頴  


確かに寄せる波の音もない静かな入り江は昔からの好錨地だったのだろ それにしても無粋な干拓事業だ  上が広田湾小友の西側にある音無の浦 直ぐ右に県道38号が走る 遠く霞んで見えるのが名勝高田松原でダムサイトの堤防の上から。ここから数キロ行くと碁石海岸である 勿論陸中海岸国立公園で国の名勝天然記念物指定されている 「松島は笑うが如く象潟は恨むが如し」と芭蕉は言ったが若し彼がここ迄来ていたら何と喩えたろう  ここは海道蝦夷の故郷だが其の豊かさは羨ましい限りだ
陸前高田市から広田湾岸を県道38号と平行して走るJR大船渡線に乗ると一つ目の駅が脇ノ沢駅 二つ目が小友駅がある。その間が小友浦で昔は音無の浦とも呼ばれていたと言う。いたと過去形にしたのはもうここには歌に詠まれた往時のような心動かす風情はすでにないようなのだし住民にもその意識も全くない。原因は昭和35年あのチリ地震の大津波による。正に歌枕の地名同様「静かで穏やかな入り江でそれまで一度も津波の影響の受けた事のない数少ない港だった。アサリがいっぱい採れたんだけどね。」と早朝浜のおばちゃんの話である。お陰で海岸線は総てコンクリートによって防波堤が築かれ脇ノ沢・小友の中間地点の旧三日市から対岸の烏島まで一直線のダムサイトの様にコンクリートの堤防で入り江は閉ざされ干拓されてしまったのです。白い砂浜 青い松原はまったく見当たらない。つまり一番絶景の音無の浦の半分凡そ30町歩が消えたとの事である。堤防には「小友浦干拓事業」のプレートが埋め込まれてあった。干上がった入り江には唯雑草が生い茂っているだけなのは何とも空しい。 「おじさん 昔ここは音無の浦って呼ばれたいたの知ってますか?静かだったんでしょう?と聞くと聞いたことねーな。それよりコーミ(?)の口って呼ばれるほど風が強い所なんだ。」と。大日本知名辞書には「・・・港内水深三尋乃四尋半、泥底にして、能四方の風を避け、小艦の錨泊に適す」とありどうもすれ違いだ。又一つ日本の風景が消えていたのです。ここから少し行くと碁石海岸と言う皆さんご存知陸中海岸国立公園の一角をなすリアス式海岸の絶景に救われるのである。所で音無の浦を私は「おとなしのうら」と読むんでいた。然し陸前高田市史によると(おとむのうら)とあり「気仙地方の地名とアイヌ」では「オタ・モイ」「オト・ムイ」からでともに「砂の湾・砂浜の入り江」と言う意味だと言う。すると初めに「オト・ムイ」があり次に「おとむ(音無)」となりそれが「おとも(小友)」となって現在に至るのだろう。小友の手前には両替と言うバス停もあり如何にも蝦夷の黄金の国気仙らしい。
平成16年7月31日)(参考 陸前高田市史)
      
   乱曝谷(らんぼうや) 別名雷岩 名前からして迫力がる 荒れた時の怒涛の音が人気だ
左端 国立公園のポスターにもっとも人気の穴通磯 侵食された3つの穴と海と松と岩のバランスの妙味は確かに絶景 左奥に霞むのは大船渡市
 碁石海岸の日の出 どこのポイントからもきっとこんな景色が堪能出来るのだろう

音無の浜(浦)