よきことを 萬代かけて 續石 神の恵みは 大原の里             伊達宗房
 上の歌は伊達政宗の孫にあたり2代目忠宗の八男で5代目名君吉村の父で宗房が詠んだ。彼は宮床の初代当主でここ大原村知行主(地頭)なのである。1646〜1626年なので歌枕と言う訳ではないが何故か私のメモに記入されていた。砂鉄川上流に大原地区があり一関市と陸前高田を結ぶ今泉街道の宿場として栄えた。ここに続石(つづけいし)という所がある。県道10号線の傍らの平坦な所に突如巨石があり、折り重なる様に大原商業高校のグランドの西隣にある。その隣に今にも朽ち果てそうな大原大明神が祀られている。続石大明神である。外見に似ず中々な人物が関与している。その最たるものが斉明天皇5年(669年)日本海沿岸を艦艇180隻をもって渡島(北海道)辺りまで出撃した征狄提督で越の国の阿部比羅夫が再建したと言うのだ。それ以前は流川で川中不動言っていたいた。言わば陸軍元帥の田村麻呂に対して、海軍元帥ともいうべき比羅夫の名が何故この北上山中に出てくるのか不可思議なところだ。その後嘉祥年間(848〜850年)僧円仁が山州大原大明神 本地薬師仏を勧進しのでこれにより当時は小萩の莊と言っていたのを大原村と改めた。その後は源 頼義・義家も太刀を奉納している。藤原三代では鬼門鎮守として祭田5丁を寄付 社地は永代不入の地とされた。この様に長閑な山村にも錚々たる歴史的人物が関与しているが交通が便利になればなるほど殆ど著名な方は都市へ集中され田舎の過疎がはっきりするのも残念だ。
(平成16年8月3日)(参考 大東町の地名 大東町教育委員会)
                                  大原の里
  天台宗観福寺
亀井六郎重清の笈
義経北帰行最初の一泊の地 観福寺
旧東磐井郡大東町(現一関市大東町猿沢)にある観福寺 こちらの奥様が気さくな方で色々お聞かせ戴きました この地も往時は金の産出もあり酒屋が5軒もあった程の賑わいだったと云う そしてこの寺は曽我兄弟の仇討ちにあった工藤祐経の長男犬房丸の開山と云うのも驚きだが近世では陸奥・北海道を歩き回った菅江真澄にも記述されている地の上に更に義経北帰行伝承の寺なのです 
義経伝承は最後にはモンゴルに渡りモンゴル帝国をつくったジンギスカンとなったと迄エスカレートするのだがその最初の一泊の地がこの観福寺なのです 平泉高舘(衣河館)を密かに脱出した義経一行は束稲山を越えてこの観福寺に一泊したのです その時義経主従で四天王の一人亀井六郎重清が残したと言われるのを奥様が出してくれました 平泉の高舘の麓には彼の戦死の碑が建っている 気にしない 気にしない・・・    

手前が県道で隣に商業高校 突然に大石が現れる 本当の歴史は何も語らぬ巨石だけが知っている
 
貞観年間円珍と言う僧の開基にて阿部比羅夫大原明神御勧進成られ本地仏薬師如来滋覚大使御作の由申し伝える(大東町の神社) とあるが貞観時代は859〜876年であり阿部比羅夫は斉明期で655〜661年なのでどう順序もおおらかなものである