撫子の山(奥玉)   つねにわが 旅寝せしかな 奥玉の なほなつかしみ 撫子の山      能因法師集 能因  
名馬太夫黒の産地の碑 
国道284号線のすぐ傍ら千厩町千厩字下駒場にあるが如何にも馬産地らしい住所だ 馬が3つも揃っている 右が小説義経の碑 中が太夫黒の碑  義経一の谷合戦で有名なひよどり越えの坂落しの奇襲作戦の際に騎乗していた馬である➡ 
 



 大野東人と言えば壬申の乱近江朝廷大友皇子軍の名将であり大海人皇子(天武天皇)軍の名将大伴吹負を撃ち破った大野果安の息子である 海道蝦夷の討伐や奥羽山脈越えて秋田雄勝柵への6000名を率いる大遠征で直線道路を開削したのは有名である 神亀元年(724年)あの多賀城を建設した按察使・鎮守将軍である彼が宝玉を受け取ったから興玉 後に奥玉となったとか この北上山中に大野東人伝説を聞くとは真に驚きです 更に能因(950年後半?)がここで歌を詠んだと云うのだ 本当に10世紀の後半に歩いてでここま来るのだろうか と想像しながら歩くのも楽しい 
北上山脈南部の山中に千厩町がある。青森県津軽半島の突端には三厩村がある。三厩は兄頼朝に追われた源義経が北海道へる逃げ延びるため馬3頭を三つの岩穴に繋いでおいた伝説でその名がある。渡った所が厩石として国道280号の傍らにある。義経の北帰行方伝説のある陸奥でその最北の地が三厩だが平泉を密かに逃れた逃避行最初の一泊の地は千厩の隣の大東町観福寺なのです。千厩は頼義・義家親子が前9年の役で安倍貞任征伐に奥州に下った時岩窟の厩に馬1000頭を繋いでいたのでその名の由来であると言う。真に不思議な因縁の伝説である。源頼義の子が義家 義家の子が義親 義親の子が為義 為義の子が義朝そして義朝の子が兄頼朝 弟が義経である。1051年頼義・義家による安倍氏征伐 1189年頼朝による平泉藤原氏征伐で陸奥の蝦夷の末裔は完全に征服されたのである。791年の初代征夷大将軍大伴弟麻呂 797年2代目坂上田村麻呂以来400年かけてやっと源頼朝が名実ともに本物の征夷の大将軍となったのである。陸奥は蝦夷・馬産地を縦糸とし田村麻呂・源氏を横糸に織り成す見事な絵模様柄の国なのです。更にここ馬産地千厩の名を高めるのが何と前述した義経の愛馬「太夫黒」の出どことは驚いた。義経に追い詰められた平氏は瀬戸内一の谷に陣取った。前は海 後ろは断崖の絶壁である。ライバル梶原景時・熊谷直実がてこずっていたのに義経は鹿が下りているのを見て「鹿も四足 馬も四足」との名文句を吐いた有名な「鵯越えの坂落とし」の奇襲である。その時の馬が千厩町生まれの「太夫黒」であると言う。 歴史の表舞台には出ない数々の楽屋裏の歴史は北上山脈の鄙びた町の他にも沢山埋もれているのだろう。行って見たいものです。本題にそれましたが千厩町奥玉地区にある撫子山 平安中期に能因がこの北上山中の千厩町の奥玉の地にやって来て撫子の山を詠んだのは真に驚きとしか言いようがない。そしてここを通過して陸前高田に出て姉歯の橋を詠んだのだろうか。今だって日本のチベットと言われるこの北上越えは難儀な道なのです。所がこの撫子山 町役場に訪ねても聞いたことが無いと言う。奥玉地区の住民に訪ね歩いても全く知らぬ存ぜぬにはがっかりした。ただ奥玉の地名は千厩川沿いにあり上・中・下奥玉がる。この地名の由来は726年(神亀3年)坂本宿禰なる人物が隣の鶴ヶ峰(大東町)から宝珠を掘り当て大野東人に献上したので興玉の地名を与えられ後に奥玉になったと言う。その珠を埋めた所が現在の桜森神社(興玉神社)と言う。726年大野東人建立と伝える。ここに立つと遥かにに室根山(895m)が見えるがまさかこの山ではないだろう。室根山の室根神社も由緒深い神社で古来蝦夷降伏の祈願所として勧進された。だから田村麻呂 大野東人 頼義・義家親子が太刀を納めるなど歴代の征夷将軍の参詣多数でる。鄙びた山里にも蝦夷と征夷将軍の葛藤の伝説が今も息づいているのです。
(平成16年8月1日)(参考 岩手県の暦史 平凡社 千厩町HP)
  磐井の里  旧東磐井郡千厩町・室根村 磐井の里 此の日絶好の天候で室根山山頂からは気仙沼港と太平洋が見える 
 室根村・大東町・千厩町・気仙郡に跨る895mの室根山 古来三陸沿漁師達の沖からの目印の山である
  太夫黒の墓は四国香川県牟礼町にある義経の忠臣佐等継信の墓の近くにある
太夫黒の説明板