岩手県は広大だ。その大きさは東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県をあわせても余りあり北海道を除けば日本一である。87%が耕地と山林原野と言う。21世紀なれどその自然の豊かさは蝦夷時代と差したる違いは無いのではないかと見紛うほどの山の恵み・川の恵みにあふれている。●そして岩手の里は抵抗の歴史の里でもあるのです。抵抗の歴史は陸奥全体の歴史だが特に岩手県は抵抗の多くの悲劇の最後の地としてその名を留める。蝦夷とは「まつろはぬ人々の国・まつろう事を知らぬ人々の国であり政治的に中央の命を奉じないし、教化・王化にも従わない勇猛な反抗者・あらぶる神々・あらぶる蝦夷ども」と勝手に見做されていた。日本書紀(景行天皇27年条)に「武内宿禰、東国より還りまゐきて奏言(まお)さく、東夷の中、日高見国あり、其の国人男女並び に椎結(かみをあげ)、身を交(もとろ)げて、人となり 勇悍(いさみたけ)し、是を総て蝦夷と 曰(い)ふ、又土地沃壤(こ)えて広し、撃(う)ちて取るべし」。これが抵抗の始まりなのです。そしてそれは大きく別けて5回もあるあるのです。●110年(景行天皇40年)日本武尊から1868年戊辰戦争にいたるまで陸奥は常に中央の侵略に対する抵抗の歴史なのです。抵抗の最大の歴史的勝利は阿弖流為・母礼による789年(延暦8年)巣伏の戦いであった。その以前にも337年(仁徳55年)上毛野田道将軍敗死・720年安察史上毛野広人を殺害・774年宇漢迷公宇屈波宇の乱(桃生城)や780年砦麻呂の乱(伊治城)・878年元慶の乱(秋田城)等その抵抗は数知れぬ。其の為大和朝廷が設けた柵は凡そ30にのぼると言う。是は陸奥国蝦夷だけにあり九州の隼人・熊襲征伐対策としての柵は殆ど無いという。その柵は越・出羽の日本海側に647年渟足柵を始めに・磐船柵・都岐沙羅柵・城輪柵・雄勝柵・金沢柵・払田柵・由利柵・秋田柵(出羽柵)・能代営等であり、太平洋側では 4〜5世紀前後設置の白河関を始めに勿来関・多賀城-色麻柵・桃生城・牡鹿柵・中山柵・伊治城、
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・新田柵・覚瞥城・衣川柵・胆沢城・徳丹城・紫波城その他安倍氏の柵として厨川柵・姥戸柵・黒沢尻柵・鳥海柵・白鳥柵・河崎柵・鶴脛柵・比与鳥柵等がある。是を見ても蝦夷の抵抗の凄さが分かるのです。●そして2回目の大きな抵抗は前9年・後3年の役である。岩手県奥六郡を支配した俘囚の長安倍氏一族対陸奥守源頼義・義家親子の9年戦争(1051年〜1062年永承6年)安倍貞任を始め其の一族は当初優勢であったが、同じ出羽仙北俘囚清原氏の多賀城への寝返りのため遂に抵抗むなしく岩手の里厨川の柵で全滅する。さらに1083年〜1087年出羽仙北俘囚の長清原氏一族対源頼義・藤原清衡の複雑な後三年の役だが悲しい異父兄弟の戦でもあった。前9年に敗れた安倍氏の娘で清衡の母(結有)は同じ俘囚で安倍一族を討伐した清原武貞と結婚させられ一命を取り留めたが其の子家衡が清衡と戦うと言う事態となった。その清衡側に義家が一枚加わったが清原氏は横手金沢柵で足掛け2年の抵抗を続けた。そのため義家は弟の新羅三郎義光まで呼び寄せてやっとの思いで清原氏を破る事が出来た。安倍氏にしろ清原氏にしろ俘囚蝦夷の抵抗の凄さを見せ付けられるのです。所でここ秋田仙北に近世義光の直系末裔佐竹氏が常陸から転封されて来るとは不思議な因縁である。●そして3番目の大きな抵抗は頼朝の奥州征伐1189年(文治5年)です。蝦夷俘囚の安倍頼時の娘「結有」と名門藤原北家魚名流秀郷の末裔の高貴な藤原経清との間に出来たのが清衡である。つまり清衡は俘囚(蝦夷)でありその子基衡・孫秀衡・玄孫泰衡も蝦夷の血が流れているのである。平氏を打ち破り名実共に武士の棟梁になった頼朝が、北の広大な土地と莫大な黄金文化を持ち我が祖先の頼義・義家を苦しめた蝦夷の末裔が住む平泉の潜在的脅威はDNAとなり、その猜疑心は弟義経をもだしにして泰衡を討ち取る事に成功し本当の征夷大将軍となったのである。泰衡の抵抗は安倍氏・清原氏の蝦夷の面影はすでになく敗走の一途だったと言う。 |