巣伏の戦いの跡の碑 川を挟んで2つの古戦場碑があるのです これは河西の跡    安土呂井公園の古戦場跡(河西) 水沢区
奈良朝期全国の人口は5.399.800名 東北288.600名 岩手42.700名  胆沢の地僅かに7.390人の時代であったこの胆沢に朝廷征東将軍紀古佐美率いる歩兵・騎兵52.800名が攻撃開始した➡
 
四丑橋と北上川  橋の長さはこの2倍以上もある兎に角川幅が広いのだ
 跡呂井御蔵場(日上之湊)
胆沢郡内には向の江刺郡内の河湊と向かい合い北から相去・三尻・金が瀬・八幡・安土呂井・瀬台野・上姉体・下姉体・六日入・目呂木の9か所の河湊があっ
た その一つ御蔵場は安土呂井河湊の跡とされてる 川の流れは変わるので現在は川から離れている 

阿弖流為の本陣羽黒山  125m 
北上川四丑橋のたもとから眺めるこのビニールハウス辺りを官軍は右から左に北進したのだろう その後ろにこの本陣から突如400名の蝦夷軍が急襲後続を断ち挟み撃ちにして官軍を大破した

稲瀬の渡し 其の8A
    
  ➡789年(延暦8年)を想像してみてください(710年延暦10年の弟麻呂は10万の大軍・801年延暦20年田村麻呂は4万) その数の多さには驚く 北上川東岸にあった阿弖流為・母礼の村落攻撃に対し官軍は前・中・後軍の三軍に分け前軍は河西を前進して巣伏で渡河し、中・後軍は覚べつ城付近から渡河して生母に上陸河東を北上し巣伏村で合流する作戦をとった 河東軍は順調に村々を焼き払い北上するが突如300余の蝦夷軍が攻撃しながら撤退する陽動作戦をとる 前軍は蝦夷軍800名の攻撃に渡河出来ず苦戦 さらに後軍の後を東山方面から400人の蝦夷軍が現れ後続を断った ここに至り中・後軍は前後を挟み撃ちとなり東側山麓は蝦夷の本拠地につき逃げられず北上川に飛び込む他無かった 所謂有名な巣伏の戦いである
羽黒山アテルイ砦跡 羽黒山山中
東北新幹線水沢江刺駅の直ぐ裏にある  江刺の平野 南流する北上川 北進する古佐美の軍隊数万の動きが一望で出来る絶好の位置にある 今も毎年アテルイを記念して烽火をあげると云う

アテルイ・モレ顕彰碑 羽黒山アテルイ砦