花巻農業校精神詩歌(賢治作詩)
 
校歌ではないが行事の際は全員で斉唱する
 日は君臨シ カガヤキハ 白金のアメ ソソギタル ワレラハ黒キ ツチニ附シ マコトノクサノ タネマケリ/ 日ハ君臨シ 穹窿ニ ミナギリワタス 青ビカリ ヒカリノアセヲ 感ズレバ 気圏のキワミ 隈モナシ/三 日ハ君臨シ 玻璃ノマト 清澄ニシテ 寂カナリ サアレマコトヲ 索メテハ 白?ノ霧モ アビヌべし/ 日ハ君臨シ カガヤキハ 太陽系ハ マヒルナリ ケハシキタビノ ナカニシテ ワレラヒカリノ ミチヲフム

復元 宮沢賢治先生の家 花巻農学校内 
元は花巻市下根子櫻(現花巻市桜町)にあって賢治の祖父宮澤喜助の隠居所として建てられたもの 農学校を退職した賢治はここに羅須地人協会を設立して農村の人達の教育の場とし多くの詩を書き農耕に従い自炊生活をして捨て身の農村運動をした
十和田湖の裸婦像・詩集道程・知恵子抄で有名な高村光太郎がここ花巻市にも縁があるとは思はなかった
みちのくの 花巻町に 人ありて  賢治をうみき 我を招きき
尚和20年4月23日の空襲で智惠子との愛の日々を過ごしたアトリエが焼けた光太郎は62歳の時賢治の縁で弟清六氏方に疎開していた そして花巻北西部のこの山荘には7年間過ごした 元は鉱山の飯場小屋でわずか7・5坪の粗末な山小屋です 『三畳あれば寝れますね』と亡き智惠子に語りかけたという 幾多の困難に独居自炊耐えながら生き昭和27年まで過ごしてた小屋です 初めて行った方はずいぶん大きな家と思いますが本体の外側に1957年一回目の覆い小屋が在りそして其の覆いも傷んできたので更に昭和57年に2つ目の覆いを建てたので大きく見えるだけです 真と善と美と知恵子に生きた独居自炊の生活でした
 昭和27年秋光太郎は青森県の委託を受け十和田湖畔に建立する記念像の為上京し翌28年その像を完成して同31年73歳でその生涯を終えました
中下左 高村山荘 立派に見えますが中は7,5坪の粗末な小屋です
中下右 套屋の建設の事情の張り紙
下 詩碑 雪白く積めりの碑
雪林間の路をうづめて平かなり ふめば膝を没して更に深く
その雪うすら日をあびて燐光を発す 燐光青くひかいrて不知火に似たり
路を横切り兎の足跡点々とつづき 松林の奥ほのかにけぶる
十歩にして息をやすめ 二十歩にして雪中に座す
風なき雪飄飄と鳴つて梢を渡り 万境人をして詩を吐かしむ
早池峰はすでに雲際に結晶すれども わが詩の稜角いまだ成らざる奈何にせん
わづかに杉の枯葉をひろひて 今夕の炉辺に一椀の雑炊を暖めてめんとす
敗れたるものの卻て心平らかにして 燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり
美しくしてつひにたらへ難きなり
前ページ上 花巻農業高校の入り口の賢治のポーズ羅須知人協会の建物 
見覚えのあるこのポーズ 一見して難しそうに大地を見つめ土と肥料を考えてるようにも見えるが意外とそうではなく初恋の看護婦さんの事で悩んでいるのかもしれないね? 大正13年3月22日の当時としては珍しい外で撮影した写真だ 実はこのポーズは彼が敬愛していた楽聖ベートーベンのポーズを真似したらしいというのだ ユリウスシュミット(1854〜1935)が描いた『孤独な巨匠 自然を散策するベートーベン』の絵がそれだ 著作権があるので載せられないが確かにそっくりなのがわかります 知り合いの写真屋に何度もポーズの注文をしたらしい 然も知人達にその写真を配った事を考えると意外と目立ちがりやではなかったのか 又東北砕石工場石灰肥料技師でも成績トップの売り上げだから外交手腕も有ったのかもしれない
前ページ下  賢治旧自宅羅須地人協会と詩碑
われらに要るものは 銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である 宮澤賢治

岩手県の歴史(河出出版新社)に賢治内面の記述があったので記してみました
大正13年賢治はイーハトーブ童話注文の多い料理店の自費出版の広告に『イーハトーブは一つの地名である ・・・・じつはこれは著者の心象中にこの様な状況をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である そこではあらゆる事が可能です』と書いている ドリームランドとしての日本岩手県構想はサムサノナツと無縁ではなく むしろその逆で逆境を逆境として受け入れそれゆえにこそドリームランドを構想する事により故郷を肯定しようとしていたのである この営みは現実からの逃避ではなく現実受容によって普遍への超越を試みたに他ならない その事を可能にするのがイーハトーブ童話の世界なのです』と 然し彼のこの様な行動は金持ちの道楽と見られていたらしいのです ロマンチストとは現世では悲しいものなのですね 彼が生まれ死んだ37年間は岩手県は津波・地震・大飢饉・大干ばつ等繰り返し襲われた時代であったから尚更故郷岩手のドリームランドを夢想したに違いない
  光太郎山荘にある詩碑 
この山小屋の生活に入って最初の冬(昭和20年12月23日)の作品でその原稿を4倍に拡大して光太郎の実弟の高村豊周(無形文化財保持者)が昭和33年に建立したものでその詩碑の下には光太郎の形見の遺品が埋葬されている

      夷の里 其の4