信太の郡。 [東は信太流海(うみ)、南は榎浦流海、西は毛野河、北は河内郡なり] 古老曰へらく、「倭武天皇(日本武尊)、海辺に巡幸(めぐりい)でまして、乗浜に行き至りたまひき。時に、浜・浦の上に多(さは)に海苔を乾せり。是に由りて能理波痲(のりはまの)の村と名づく」といへり。乗浜の東に浮島村有り。長さ二千歩、広さ四百歩なり。四面は絶海にして、山と野と交錯(まじ)れり。戸は十五烟(けぶり)、里は七八町余(ところあまり)なり。住める百姓は塩を火きて業とす。而して九つの社ありて、言も行も謹諱(つつし)めり。曰く、黒坂命、陸奥の蝦夷を征討ちたまふ事ありき。凱旋(かちかえ)りて、多歌(たか)郡の角枯の山に及(いた)るに、黒坂命病に遭ひて身故(みまか)りたまふ。爰(ここ)に、角枯を改めて、黒前の山と号(なづ)く。黒坂命の輪轜車(きくるま)、黒前の山より発ちて、日高の国に到るに、葬具(はぶりつもの)の儀(よそほい)、赤旗、青旗、交雑り飄?(ひるがえ)りて、雲とと飛び虹と張り、野を瑩(て)し営路を輝かせり。時の人、 「赤旗垂(しだ)る国」と謂いき。後世の言に、便ち改めて信太国と称ふ。(公望私記に曰く、『常陸国風土記を案ふるに云はく) 信太の郡。古老曰へらく、「難波長柄豊前宮御宇天皇の御世、癸丑(みづのとのうの)年に、小山上物部河内・大乙上物部會津等と、惣領高向大夫等と、筑波・茨城の郡の七百戸を分かちて。信太の郡を置けり。此の地は、本、日高見国なり。    (常陸国風土記 且R川出版社)
浮島 信太東条の流海にして、古風土記、「信太郡、東信太流海」とあるにあたり、霞浦の南偏を指して、しか云へるのみ、されば今の阿波崎浮島の浜と見て可なり。今浮島村と云ひ、霞浦の中なる一島とす。信太の浮島は古より諸書に顕れたり、風土記に、信太郡、大足日子天皇 浮島之帳(とばり)宮無水供御、云々とあるも此か。浮島の陸岸を阿波崎、阿波村と云ひ、風土記は安婆島と云ふは即浮島の一名とす。
  
桜川 瀬々の白波 しげければ 霞うながす 信太の浮島        紀貫之
稲敷里 
新編国誌、信太郡に稲敷郷あり、即これなり、今河内郡矢代、大徳村の辺りあたれり、此地東海大道のある所にて常陸国の道の口なる故、官吏の往来絶えざるより名称となれり。夫木抄いなしきの里、喜多院入道二口のみこ
  わびつつも かくていくよを 過ぎぬらむ かりねならほぬ いなしきの里
  いなしきや そともの田井に ふす鴨の かくぬればかり ひづち生ひにけり

鹿島が崎(東下)
 今東下村と云ふ。常陸原の南端にして直に銚子湊の北岸をなす。鹿島の東南八里、其浜及び丘は全く平沙より成り、高地と雖、十米突許。大字波崎は、正に銚子町の飯沼山に対し、常陸原の最岬といふべし。
高天浦(高間の浦) 補志云、鹿島の宮の東の海辺を、高天原といひ、即其浦なり。近世まで連綿たる神山にして、庶民の濫?を禁じたり、従ひてい種々の霊異を談じたり。
  春霞 高間の浦を こめつれば おぼつかなしや あまの友船
浪逆の海 今、北浦の南、与田浦(古の香取浦の痕跡)の東にして、北利根川の来会する江湾に、専此名を唱ふ。其北偏に鰐川浦の特名あり。利根の幹流は、其南に通じ、方三十町許の広さあり。其東岸は即香島郡中島郷(賀村)、北岸は行方郡潮来、延方の大洲島なり。浪逆(奈左珂)は、古人之を海と云ひ、香島、香取の間の内海の汎名とせり。されば後世江海の形状頗変革し、今は僅に一湾の名と為せど、古の波逆海とは、安是湖(ミナト 今の銚子湾)を海門とし、三宅滷、香取海をも籠絡し、、北浦、西浦(香澄流海)を傍支とせる大江なりしと知るべし。其海、ひと流は、北鹿島郡と南行方郡とのなかに入れり、ひと流は、北行方郡と南下総郡の堺をへて、信太郡、茨城郡まで入れり、然るに、彼の海塩のみつる時には、波ことさかさ上る、然れば、波の逆のぼる義によりて、なさかの海と云べきなりけり、彼ふた流の海、玉藻多く生なびけり。
海上潟 浪逆浦と相連接して、江水別に相限る所なし、下総国海上(南岸)の方より、此浦をかくは呼べり、下総へ重出す。
  はるかにも 来にけるほどぞ 知られける 海上潟を 浪ごしに見て  光俊集
                             (大日本地名辞書 坂東 富山房)