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上・左 常陸風土記の遺構 玉清の井 行方市玉造 常陸風土記によると昔 日本武尊が東方征討の途中この地を通り清泉の湧き出るのを見て水をすくうおうとして勾玉を水中に落としてしまった由緒ある池 今でも滾々と清冷な水が炎天下にも拘らず涸れることなく湧き出てる 左の画像には勾玉を掲げる日本武尊像が池の真ん中にありました
右 鉾田市指定名勝 宝光山大儀寺 鉾田市阿玉
芭蕉の禅の師匠である仏頂禅師によって再建された大儀寺は俳句の里百基句碑で有名で境内には179基程の句碑がある 茨城自然100選にも選ばれている
芭蕉の鹿島紀行の冒頭の文書には
『洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、
松かげや 月は三五夜 中納言
と云けん、狂夫の昔もなるかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。・・・』書いている |
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上 景清の松の碑 鹿嶋市棚木 大福寺近く
文治4年(1188)、壇ノ浦の源平合戦で戦った平景清(たいらのかげきよ)が、娘の人丸に守り本尊の十一面観音菩薩を託し、源平合戦の犠牲者慰霊と世の平和祈願を命じた。人丸はこの地に着いたが本尊安置場所がなく、松の老木の根元に仮宮として仏像を安置し、のち出家して妙庫比丘尼(みょうこびくに)となり、近くの大福寺を創建したという。 景清の松は昭和47年(1972)8月の台風14号で倒され枯死したが、平成元年に2代目の松を植樹してこの記念碑を建立したようだ。 石岡市内平福寺に景清の墓碑がある
左上 芭蕉句碑
寺にねて まこと顔なる 月見哉
左下 佛頂禅師像
おりおりに 変わらぬ空の 月影も
ちゞのながめは 雲の間に間に |
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