左 烈公御手植えの白梅(村松虚空蔵境内) |
重盛は平清盛の長男で文武両道・冷静沈着な重盛には戦前誰もが暗記していた名言がある
忠ならんと欲すれば孝ならず、
孝ならんと欲すれば忠ならず
と云われてる これは平家打倒をもくろむ鹿ケ谷謀議が発覚して激怒した清盛が時の治天の君後白河天皇を捕縛・幽閉する出陣間際に鎧姿の父清盛に思い留まらせた時の言葉である 治承3年(1179)42歳で亡くなったが養和2年(1182)平貞能はその遺骨と得津禅尼(重盛夫人)を伴ってこの地に落ち延びたのです(説明板) 右の画像に宝居筺塔が見えるが是が重盛の墓かも知れない 他に夫人と貞能の墓もあると説明板には書いてあるが柵があるので中には入れなかった 烈公歌碑には
みやこより ひきし小松の 墓なれば
千歳の末も のこるとぞ見る
この碑は天保14年9月10日9代水戸藩主烈公が来訪時重盛公の墓を詣でて詠んだもの 小松寺とは彼が小松内大臣と呼ばれていたから こんな山奥に栄華を極めた平家一門の重盛夫妻の墓があるとは驚きました |
内大臣平重盛の墓地 |
皇后の宮を司る権中納言皇后権太夫源師時の日記長秋記である 寛治元年(1087)から保延2年(1136)に至る約50年間の記録でその中で大治5年12月30日の条に武田冠者義清・清光父子が甲斐の国への配流になった理由が記されている |