境の明は玉津島神社 
陸奥福島県側にある 女神衣通姫を祀り奥州明神と称された 女神は内(国内を守り)男神は外(外敵を防ぐ)と云う信仰に基づき祀られている そのため陸奥・下野ともに『自からの側が玉津島神社を祀り反対側の神社は住吉神社を祀る』としているのはまことにほほえましい論争だ

左 白河二所の関祉の碑 道路を挟み福島県側境の明神の向にある 

福島県側の境の明神境内
 
奥大道は五街道の一つで参勤交代を初め武士・商人・文人墨客の往来が激しく新潟県新発田藩士や岩手県南部藩士が寄進した灯篭や歌碑・句碑そして和算の山額の奉納など多く建立されている 芭蕉の句碑は   
 風流の はじめや奥の 田植え唄
 愈々陸奥と言う奥の細道の入り口 黒々とした暗い森がいかにも毛外の地を連想させ印象的だ 左側に栃木縣毛野側境の明神がある 

 陸奥白河
国境碑 

境の明神にある

白河の関 
其の3


上 ニ所の関の碑 二所の関の由来は奈良・平安初期の国境には男女二神を祀るとされ境の明神と呼ばれる 下野国住吉神社には中簡男命を祀り関東明神と称し岩代国は玉津島神社の衣通姫命祀り奥州神社したとの由来である 勿論大相撲の二所の関部屋も白河の関からとったもので初代の四股名は南部潘おかかえの名関脇二所の関軍之丞と言うのである この関ほど上は天皇・征夷大将軍から文人墨客そして一般庶民に至るまで大衆の参詣を受けた神社は他にないと言う 
上左 国境の296号線を通ると分かるのだがこの両境の明神は道路から数m高い所にあり側壁が2段になってるにのに気付くでしょう 実は関が出来た当時の東山道は境の明神と同じ高さの所を通っていたのです ところが天正8年(1580)豊臣秀吉奥州仕置で会津え下る際に急峻な坂道をなだらかにする為に道を掘り下げたのです そして今度は明治9年(1876)の明治天皇東北行幸の際更に道路整備をした際に更に6尺も一段と掘り下げたためなのです 文章には「明治9年、明治天皇東北御巡幸在アラセラルゝヤ、福島縣ニ存ッテハ栃木縣ト協議シ福島縣ト栃木縣ノ境即チ下野國ト磐城國ノ境古ノ白河関ト称シタル明神坂ヲ六尺程切リ下リケル事トシテ北側ハ福島縣ノ工事トシ長サ三拾間、南側ハ栃木縣ノ工事トシテ其の長サ廿間、両縣トモ西側ニ石垣を積ミタリ・・・・」とある
  境の明神は住吉神社
下野栃木県側にある  男神中筒男命を祀り関東明神と称された 奈良平安時代の国境には男女二神を祀るのが常である そこから白河の関は二所の関と呼ばれていた 奥州の第一歩を踏み込むに夕暮れ時くいなが鳴くのを聞き曾良はその感慨を詠んでいる
    関守の 宿をくいなに 問おうもの 
 
金売吉次三兄弟の墓 吉次・吉内・吉六は京の帰り道藤沢太郎入道等に襲われこの地で殺害されたと言う 明確な記録は無いが室町時代の建立と言う 関のある県道75号ではなく国道294号沿いにある
1800年白河藩主松平定信公による考証で現在地白河の関跡が確認され1966年に国指定史跡に認証された 因みに東北を代表する仙台市にある新聞社河北新報の河北は白河以北を意味するのである  白河の関跡保存会の白河関史記には
「この地は観光遊覧の地ではありません 古代の史跡地として国が特別に指定した類例のない関跡です」と記述してる