君恋ふる 涙しぐれと 降りぬれば 信夫の山も 色ずきにけり          千載和歌集 祝部宿禰 成仲
   昔、みちのくにゝて、何でふ事なき人の妻に通ひけるに、怪しふさうにて有るべき女ともあらず見えければ
信夫山 しのびて通ふ 道もがな 人の心の 奥も見るべく              伊勢物語 在原 業平

恋の職人在原業平はその伊勢物語の東下りの中で上の歌を詠み 更に『女、かぎりなく、めでたしとおもへど、さるさかなきえびす心を見ては、いかゝはせんは』と書いている。誉められるのか貶されてるのかも分からない陸奥の純な雛の女性は貴公子の言葉に舞い上がってしまったのです。古来多くの都人を夢中にさせた信夫山は今も御山と地元では呼ばれ親しまれている。数多くの心ある人に詠まれた一級の歌枕の地なのです。復刻版信夫山には『・・・・王朝・鎌倉時代に歌われたしのぶ山は宴席・机上にての題詠で山そのものの感興を歌ったものではない。追懐・相思の情をしのぶ山として詠んだものでここ信夫郡の信夫山と名指して歌ったものではないが
        いかにして しるべなくとも 尋ねみん 信夫の山の おくのかよひ路  藤原 俊成(定家の父)        
と呼んだ俊成はこの信夫山への通い路のしるべなき実相は脳裏に映じないとしても心の中には信夫山は陸奥国の信夫郡にある山と思いを馳せて恋の忍路にかけて詠じたのだろう』と書いている 又『しのぶという語感の響きは恋しのぶ・しのび逢い・しのび居る・耐えしのぶ・忍び泣き しのび足・しのび音・しのび寄る等王朝・鎌倉時代にかけてもてはやされた。歌に読まれた福島県の歌枕は八百数十首の内信夫郡のみが二百三十首も占めているのを見ても明らかだ。然も信夫山として詠んだものが九十首は本県歌枕中第一位である。江湖に知れ渡っている白河の関・山の井のごときも八十首であるをみても実に信夫山は東北に冠たるにとまらず全国的に著名な歌枕なのである』と書いている。
信夫は当て字で本来「忍」「偲」「恩」であると高橋富雄氏
(古代語の言語学)は書いている。この山は今や信夫の里の林立するビルの真中にあるが、古来この山は神々と修験道の山なのである。西峰羽山(通称烏ガ崎)には湯殿神社、東峰羽黒山には羽黒神社、ともに仏教渡来以前の古い神社なので山号がない。中峰はこの地で崩御されたとゆう欽明天皇(1199〜1223)第一皇子八田王・淳倉太命の御鏡を月読命の御霊代として納められたという月山神社がある。つまり信夫三山といわれる所以である。さらにこの山より真南3キロにある旧4号国道の坂には伏拝なる地名がある。日本武尊が東征の折この坂から信夫山の神々を伏し拝んだ所だとされている。およそ1800年以上も前の夢を掻き立てる話であるはありませんか。信夫山は西の端にある烏が崎を羽山と呼ばれ古くは大羽山と称されそれが青葉山とも呼ばれていたと云うのである。だから伊達政宗はその祖朝宗の出身地(市北部の伊達郡)を偲びその地を青葉山 仙台城を青葉城と称したというのです。この事実は意外と知られていないのです。つまり仙台の青葉山は福島の信夫山の旧姓なのです。現在は柚子の北限の地で さらに福島市民の自然豊かな天然の公園として親しまれている標高僅かに270mの山である。
(平成15年1月27日)(復刻版信夫山 蒼樹出版・黒沼神社由来書・福島市史・信夫山石姫皇后悲哀物語 凸凹未来企画学者舎・南奥ふくしまの古代史 歴史春秋社 

日本一の大わらじ
羽黒山神社に奉納されたさ2トンの大わらじ 厳寒の2月11日暁まいりとして氏子達に担がれて急峻かつ岩石だらけの参道を登り奉納されている

日本武尊が舟を繋いだと云う舟繋ぎ石からみた福島盆地の真中に横たわる信夫山 ここの字名は伏拝と呼ばれている 市内の真中にあるのが分かります

古代福島に東山道の駅家(うまや)があり岑越駅と呼ばれていた 岑は嶺で信夫山と云われている 夫木和歌集(詠み人知らず)では峰こし山とも呼ばれていたらしい
 尋ねきて 我こそは又 見えもせぬ 峰こし山は いつも忘れじ
  北限の柚子
 南側山麓の陽だまりの暖かさのせいである


  信夫山