うちはへて 苦しきものは 人目のみ 
           信夫の浦の 蜑のたくなわ

          
新古今和歌集 二条院讃岐
玉藻かる 忍ぶの浦の 蜑だにも 
        いとかく袖は 濡るるものかは

                   内大臣歌合 雅光朝臣
きのふまで 忍ぶの浦の 秋の風 
        けふあらはれて 浪もよせけり

              後鳥羽院御集 後鳥羽天皇
尋ねばや 煙を何に まかふらん 
         信夫の浦の 海人のもしほ火

              続後撰和歌集 従二位家隆
日をへつゝ 宮こしのぶの うらさびて
         浪よりほかの おとづれもなし

        新古今和歌集 入道前関白太政大臣

浦とは海であるが陸奥信夫郡信達盆地に浦という歌枕が有るのは不思議だ。そう言えば福島市内の町名には舟場町、浜田町、上浜町、腰浜町、新浜町、東浜町、北・西浦(裡)、松浪町、入江町・堀河町等海水にまつわる町名が多いのと無縁ではないだろう。この盆地は数万年前は湖(うみ)だったと言う。それが天智天皇の時代下流宮城県の猿跳(さるっぱね)が開かれた為湖が消え湿地帯になったと言う本当のような喩え話があるのも不思議である。ところが信夫山という本の中の黒沼神社の項には『昔この神は信達平野が泥海であった時の水神にて・・・』とあり興味深い。確かに福島市は信達盆地の鍋底にあるので湖があっても可笑しくない地形ではある。其の為夏蒸し暑く 冬は吾妻下ろしで極めて寒い所である。そんな低地の市内を流れる大河 阿武隈川には松川、須川、荒川、祓川、濁川、摺上川が流れ込んでいる。所が福島・宮城県境は猿跳の様に岩盤の為侵食が出来ず流れ込む土砂の為上流は洪水となって氾濫原となったようでその河跡湖らしきものもあるが大湖沼が長年存在した証拠は何一つないという。近年では昭和16年の大洪水では信達盆地が一面の泥海となり新設されたばかりのNHK福島放送局が放送不能となった例があるのでまんざら大洞でもないかもしれない。数千年前の水量は今の数倍はあったろうから浦の体をなしていたのかも知れない。この無名の浦よりも信夫と云う歌枕の地に対する古代の都の人々の人気の強さが想像力をかきたてて信夫の浦を作り上げたに違いない。(平成15年1月26日)(参考 信夫山 蒼樹出版 福島市史 阿武隈川舟運図 建設省東北工事事務所福島工事事務所))
  瀬の上の渡し
阿武隈川を渡る阿武隈急行付近の
 瀬上渡し付近であり近くには芭蕉が超えた月の輪の渡しがあるい

  建設省発行の阿武隈川舟運図に見る猿跳ね瀧の図 ここから更に下流宮城県丸森町にある



信夫の浦