逢瀬川 袖つくばかり 浅けれど 君許さねば えこそ渡らね               重家集 藤原 重家
まだなれぬ 人にぞ今宵 逢瀬川 同じ流れを 思い渡りて                季経集 藤原 季経
堰とめぬ 人目つつみに ことよせて 流れもやらぬ 逢瀬川なみ        夫木和歌集 大納言雅定卿
程もなく 流れぞとまる 逢瀬川 かはる心や ゐ堰なるらむ             新続古今和歌集 藤原 盛方
浅香山 さも浅からぬ 敵とみて 逢瀬に勇む 駒の足並み                     源 頼義


逢瀬とは 『恋人同士が密かに逢う機会(三省堂)』とある。この川は安積山(額取山)を源流にして逢瀬町 安積釆女伝説の片平町を通り 人口33万の郡山の繁華街を西から東に流れ阿武隈川に注ぐ。御多分に漏れず一時は汚染もひどかったようだが近年環境意識の高まりから比較的美化されてきてはいるようだ。この魅惑の名前の由来について逢瀬町の方何人かに尋ね歩きたれども詳細は知らずとの由。それにつけても魅力的な名前だけに中世にはこの様に歌に詠まれ人の心にとどめられたのでしょう。東山道 奥大道 奥州街道を行く人は必ず渡らねばならぬ川だったが このように古人に詠まれるほど奥床しい川だった事を何人の人に意識されているのだろう。ましてや歌枕の地とは幾人の方がご存知であろうか?
(平成14年6月14日)(参考 多田野本神社禰宜資料・郡山の歴史 郡山市教育委員会・梶原景時 新人物往来社) 

  郡山市西部の逢瀬町の額取山の麓にある多田野本神社本殿 御霊大明神とあり陸奥では抜群の人気を誇る源氏の八幡太郎義家の家臣鎌倉権五郎景正を祭神とする比較的珍しい神社である ここの宮司さんも安藤姓で郡山では極めて由緒ある姓である 尚且つ景正についても造詣が深く貴重なる研究資料を頂いた

櫃石
この石なんとなく古代古墳の長方形の石櫃に似ていると思いませんか

御霊大明神 多田野本神社
非業の死を遂げた人の霊の祟りを恐れてその霊を鎮めるために祀たのが御霊の宮という  京都の上御霊・下御霊神社が有名だ
  前九年の役源 頼義・義家の家臣である鎌倉権五郎景正が逢瀬の地に駐屯していて近くの賊徒を征伐して峠の麓のお社にその霊を祀ったがその後は災いが度重なったため賊徒の祟りとしてその霊を山中にある櫃に似た大石に移して祈願した その後は災いは収まり 五穀豊穣となったためこの石を御霊櫃石として崇めたという そこからこの峠を御霊櫃峠となったのである 鎌倉権五郎景正後三年の役で其の奮戦振りで有名だ 出羽の清原軍金澤の柵の攻撃中敵からの矢が右目に刺ささったがそのまま敵の首とった 苦んでいる景正を見て同郷の三浦平太郎為次がその顔に土足を載せて抜こうとしたら景正が切りかかってきた 『矢が刺さって死ぬのは武士の本望だが土足で顔を踏まれるのは武士の恥辱である』と 為次は謝罪の上丁重に矢を抜いたと言う逸話の持ち主である 御霊神社は彼を祀る神社だが梶原景時は彼の曾孫で景季・景高は玄孫に当る 本来関東における平家5家(大庭・梶原・鎌倉・長尾・村岡)を祀る神社として創建されたが武勇の人景正を神として祀るようになった それがこの安積平野に祀られているとは驚きました 景正の孫が大庭・梶原・長尾氏なのです 源氏の祭神八幡神社は陸奥には五万とあるが御霊神社は珍しい 所でこの石は御霊櫃峠へ登る中腹の細い道の左側にあるが小さい目印しかないので見落とすかもしれない   
逢瀬川