久慈川は 幸けく在りまて 潮舟を 真楫繁ぬき 吾は帰りこむ
                               万葉集巻20 4368 防人 丸子 佐壮
福島県南部奥久慈の中心を流れ延長124km 八溝山山麓を源として鮎釣りのメッカとして太公望の垂涎の川である。『常陸の国久慈郡に出て海に灌ぐ。故に久慈川と名付と雖も、源は白川の内に発す。白川の内にて既に久慈川の名有りて常陸に入るなり.....』と矢祭町史の『白河故事考』にある。この文章を読むと久慈川に対していかにもその愛着の深さを感じる次第である。特に陸奥の地域に於いて常陸へのライバル意識を見るおもいである。「久慈郡を通って海に出るから久慈川ではないんだよ。水源の陸奥白川から川の名前はもともと久慈川と呼ばれているんだ.....」と云わんばかりである。福島県南部の東白川郡一帯はいずれにしろ古代神代の時代からこの川の恩恵の深さは半端ではないだろう。山脈を縦に流れているのも特異である。さもありなんである。この防人の歌からも母なる大河 心の支えとしての久慈川への思いが伝わって来るようだ。『久慈川よ 無事で待ってておくれ 潮舟一杯の櫓を漕いで私は必ず帰って来るよ』。悲しきかな防人の多くは東(あずま)の国から徴用されたのである。遠く北九州で何時故郷へ帰れるか当ても無い不安な心を慰めてくれるのはいつも故郷の山 川であっただろう。面白いのが久慈川の名前の由来なのである。常陸国風土記の久慈郡の項に『久慈の郡、東は大海、南と西とは那珂の郡、北は多珂の郡と陸奥の國との堺の岳(やま)なり。古老(ふるおきな)のいへらく、郡より南、近く小さき丘あり。體(かたち)、鯨鯢(くじら)に似たり。倭武(やまとたける)の天皇(すめらぎのみこと)、因りて久慈となづけたまひき』とあるのです。久慈川の名が鯨に由来するとは面白いではありませんか。風土記は奈良時代初め713年(和銅6年5月)元明天皇が全国に命じて@その國の郡郷の名前(縁起の良い二文字で)A国の産物B土地の肥沃状況C地名の起源D伝承されてる旧聞異事の編纂を命じ提出させたものであるがほぼ完全なもので残ってるのが常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の五カ国の風土記のみでその他の風土記は逸文であるがそれでも古代のロマン一杯である。(平成14年6月12にち)(防人の基礎研究 吉野 裕・ 矢祭町史・白河市史)     常陸太田市を流れる久慈川 橋の名は幸久橋(さきく) 福島県白河市八溝山系から流れ出て日立市と東海村の境で太平洋に注ぐ
  かえりみの塔 幸久小学校の前に建っている
常陸太田市上河合町
 久慈川


 
・・・幸けく在りまて・・・から幸久橋のネーミングは野口雨情の伯父野口勝一氏が命名したという 左画像は手前の橋が幸久橋 奥が水郡線の鉄橋である 奈良時代の755年ごろ防人として徴用された陸奥常陸太田在住(往時は陸奥管内)の丸子部佐壮はこの様な小舟に乗って筑紫へ向かったのでしょう 再び帰れる保証はなかったのですから望郷の念はいかばかりっだったでしょうか また幸久小学校前の像は後ろ髪をひかれる思いで何度も振り返りながら肉親との惜別をした事でしょう 
  画像は幸久橋の傍らに立つ久慈川万葉歌碑 中々個性的歌碑ですね 
   福島県矢祭町を流れる久慈川上流と水郡線 日本有数の鮎の釣り場であ