花紅葉 経緯にして 山姫の 錦織りなす 袋田の滝
                             西行(出典不明 大子町担当者)

袋田の滝のある久慈郡常陸大子町は現在茨城県であるが、ここは永正7年(1510年)以前は陸奥国白川領依上郷だったが、文禄3年(1594)の文禄検地で正式に常陸国久慈郡に属したのです。そしてここは有史以来蝦夷対策の国境でもあるのです。その意味でここには有名な奥州3関の白河、勿来、鼠の関に引けを取らない重要な柵があったとおもわれる。然も白河の関が国道294号と県道76号線の二所の関であったと同じ様に(おおぬかり)の関と焼山(たきやま)の関と2つなのである。弘仁2年(811)に大和朝廷が勿来関を通って多賀城に到るいわゆる東海道(浜街道)を要を為さざるという理由で廃止し替わって蝦夷えの機急に備えるという理由から常陸の国府から東山道の白河松田駅までのいわゆる官道常陸道が新設されたのである。平坦な浜海道が何故要を為さなくなった理由は分らないがここ久慈川沿いの常陸道は山また山の決して楽な街道ではないのです。ただこの久慈川沿いには日本武尊の伝承を伝える近津神社・八槻都々別神社・馬場都々神社等の記紀にも記載されてる由緒ある式内社神社や国分寺・国分尼寺跡ではないかと思はれる県史跡流廃寺跡等があり、それが大和朝廷をして久慈川流域に街道を変更した理由かもしれない。(は常陸道駅家の一つ長有の宿の名残ではないかとされる)
 福島県矢祭町を分岐点として常陸太田市を通り水戸に到る国道349号線(棚倉街道)の県境にあるのが大の関である。この付近は御多分に漏れず素晴らしい道路に整備されてるが、道路も良く案内板もないので森の中の関址の境の明神を通り過ぎてしまうでしょう。鳥居から拝殿まで息切れすほどの参道を登り杉木立のなかに人気も無く世間から忘れられた様な神社が関跡と云うのです。 同じように矢祭町から別れ久慈川に沿って袋田の滝のある常陸大子町を通り水戸に到る国道118号線(南郷街道)にあるのが焼山の関である。この道は国道349号線に比べ大変険しい道である。平坦な所が無く久慈川、国道、JR水郡線が交差しながら進むのである。そして頃藤と云う所で国道から300m位入った大変狭い所に数軒の人家がありそこに立派な関戸神社がある。そこが焼山の関址だと云う。その隣に宮司さんの家があり奥さんが 家の前を通る幅2mばかりの道がその古道である事を話してくれた。頂いた由来書には『大同元年3月8日創建。天喜年中源義家北征にあたり東白河郡と常陸久慈郡との国境としこの社を関戸米(せきとめ)神社と称した・・・』とある。さらに関については『…久慈郡ヨリ陸奥白河郡ニ入ルベキ道ニアり今ノ久慈郡此藤村
(古奥州白河郡)ニ関戸明神アリ。コレ其地ナリ。此村ハ依上保ノ内ニテ永正以前ハ奥州ニ属シ当国久慈郡ノ堺ナリ。以北ニ南田気北田気ノ両村アリテ皆山谷ノ間ナリ。焼読テ多喜トス。即ち田気山ナリ。今昔物語云』と。今昔物語から焼山の関を関戸神社の地にあて読みをタキヤマノセキとしている。 この険しい道に立つと実になんとも云えない感慨が湧いてくるのは私だけではないだろう。何もないこの山中は14〜500年も前から自分の領土を守る蝦夷と畿内の豪族であった大和朝廷の領土拡張政策の接点でもあり陸奥。常陸の国境でもあるのです。そして良くも悪くも官道常陸道を可能にしたのが大河久慈川なのである。そして其の険しい山間の支流にあるのがこの袋田の滝なのだ。西行ならずとも一見する価値のある滝だ。官道常陸道はどちらの道なのか中々難しいようだ。日本後記には811年は福島県側に高野駅・長有駅を設置したが翌年には常陸側に雄薩・小田(山田)・田後の3駅家が設置されたと記載されていえる。雄薩は現在の常陸太田市にある小里の事であるから常陸道は国道349号線の側なのかもしれない。田舎なれどもこの道は中々味のある街道なのだ。
(平成14年6月8日)(参考 矢祭町史 矢祭町・古代語の東北学第5集 歴史春秋社・白河市史・白河の歴史 株郷土出版社)

右画像は8年ぶりの全面凍結になった2012/2/4のライトアップされた氷瀑である  4段なので四度の滝とも呼ばれる
                  袋田の滝