陸奥の 阿武隈川の 岸にこそ 人忘れずの 山はさかしき       八雲抄 詠み人知れず

白河の町中をすぎ宗祇戻しの碑
(右たなくら 左いしかわ道の追分碑もある)の傍らを通り石川町へ向う通称御斎所街道(県道11号線)
借宿と云う所を過ぎると左手に標高70m位の新地山の下を通る。ここが人不忘山である。清少納言の枕草子のものず
くしの山の項に『小倉山 三笠山 人忘れずの山 末の松山.....』云々と34の名山に堂々と載っているが果たしてこの山
かどうかは疑わしい所だ。1800m級の蔵王連峰も不忘の山と呼ばれているのだから。あなた
(彼方)の雰囲気は蔵王に分が
ありそうだ。ここ新地山では阿武隈川は目の前を流れているので『あなた』という程ではないのかとも思える。ただ蔵王の方
にも人、妹がつかないただの不忘山云う弱点はある。明治の小説家田山花袋
(田舎教師等)が養子の見合いで義兄のいる棚倉を訪れた時の文章に(日本一周後編)に『・・・白河の停車場をおりて、そこで車をやとってそして棚倉の方へむかった事があった。私のようなロマンスの少ない身にとってこの旅は特に記憶すべき性質持っていた。・・・私の車は村から村へと通っていった。感忠銘のある傍らだの、人なつかしの山の傍らだのを通って行った。阿武隈川の流れはまだそこまでは狭く小さかった。』と書いている。彼は人不忘山と人懐しの山とは勘違いしてるようです。感忠銘を通り棚倉へ行く傍らにある山は人不忘山だから。でも文豪の知識はやはり違うのですね(平成14年6月23日 たなくら史談抄 (株)ヨークベニマル) 

下右 人不忘山(正面左) 現在は新地山という 山頂には義経の家臣佐藤継信・忠信の冥福を祈り母乙和が勧請したと云う羽黒神社がある 県道11号線 室町時代1489年道興准后がここを通って八槻へ向う時『・・・転寝の森より八槻へ赴く道すがら人忘れずの山を過ぎて・・・』と書いている すでに人不忘山と云っているので著名な歌枕だったのでしょう。八雲抄は1220年頃に成立したが 清少納言(965〜1056)はすでにその200年も前に陸奥の人不忘山を挙げているのはやはり白河ブランドの凄さだろう

下左 人不忘山の碑の奥にある立派な彫刻の石塀で囲まれた中に文字が彫られた石碑がある 松平定信公の文字は見えるが読みにくい 恐らくこの歌枕の山への憧憬でしょう 世々へても 心の奥に 通ほらし 人忘れずの 山の嵐は と詠でいる
人不忘山





右下 感忠銘

頼朝の奥州征伐後白河庄の地頭職となったのが結城氏で宗広の時代に威を張りその子親光と共に南朝方の重鎮として元弘3年(1333)には太守義良親王(後醍醐天皇第7皇子・のりよし・歴代97・南朝2代の後村上天皇)と陸奥守北畠顕家をここ白川の地に迎え建武3年(1335)と延元2年(1337)の2度にわたり西に上り南朝方の重要な拠点なったのです この感忠銘宗広・親光の忠烈を後世に伝えるため文化4年(1807)ほられたもので日本有数の磨崖碑である 感忠銘の3文字は白河藩主松平定信公の文字による 白河市から石川町への県道11号線の傍らにある 今回の3・11の大震災で崩壊しなかったのは幸運でした(説明板より)


 
 
   右 阿武隈川をはさみ左 人不忘山 右人懐(なつかし)の山(歌枕) その手前に関和久郡衙跡がある  
 
白川城断崖絶壁にある感忠銘