安積の岩井
美草生し 安積の岩井 夏くれば たふさもひちて 結ひあへぬかも
      曽丹集 曽禰好忠
手なれつつ すすむ岩井の あやめ草 けふは枕に 又やむすばん    夫木和歌集 前中納言定家

曾禰好忠という人は中々変わった人だったようだ。当時彼は変人ゆえ歌人としては不遇を囲っていたらしい。『彼は64代円融天皇(959年-991年)の紫野の子日の御幸に招待もされないのに参上して追い返された』と言う逸話も残っている。古今集の正統を受け継いだ歌風が支配的だった平安中期の和歌において、好忠の作風は最も異彩を放ったようである。
            蝉の羽の 薄ら衣に なりにしを 妹と寝る夜の 間遠なるかな
夏の衣は絽や紗のような薄物で作られた単衣を身に着けた女と寝る露わな表現や
           わぎもこが 汗にそぼつる 寝たわ髪 夏のひるまは うとしとや見る
真夏の昼間、汗に濡れ、乱れた髪で寝そべっている妻をそれを『うとし』とは見ない彼の視線。およそ平安王朝の典雅とはかけ離れた趣である。「汗」「寝たわ髪」「ひるま」といった語彙自体、好忠以前に和歌で用いられた例を見ないという。そんな彼だから彼は貴族の屋敷に植えられた梅の花よりも、野や沢に生える芹やははこ草を詠むことを好んだ。後朝
(きぬぎぬ)の別れの涙を詠まず、茅屋で汗をかきながら妻と共寝する有様を歌にした。百人一首の中の私の好きな歌に
           由良の門を 渡る船人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の路かな
がありますが非常に今でも分かり易く現代的・自由奔放・新鮮・常識にとらわれぬ人だったようだ。そんな人だから遥か遠く鄙の国陸奥岩代の岩井の清水なども詠んだのかも知れない。そんな清水が現在でも知名度は低いのに平安中期以前には既に都の教養人には知られていたのは何故なのか?陸奥歌枕を尋ねて何時も考えさせられる疑問である。この歌枕もご覧の様に全くの田んぼの中のこんもりとした杉林の中の平凡な農村にあるのである。然も現4号国道東側にある奥州街道とは正反対の西側であり当時なら全く人目にも付かないと思えるのである。本宮の生涯学習館の渡辺幹夫氏によると昔の東山道は町中ではなく、西よりの山すそがメイン道路であったとゆう。当時は町中は阿武隈川と安達太良川の合流点の湿地帯で人の通れる所でわなかったから山すその岩井の清水辺りを通っていたのではないかという。源義家が兵士のために矢尻で掘ったら水が湧いたとか、この道の延長線上にあり義家が駒をつなぎ留めたとゆう大玉村の馬場桜の話を聞くとまんざらでもないのかと思えるのである。確かに遠の朝廷の多賀城に下る時この辺りで水でも飲んで一服したくなる所ではあ
る。(平成14年12月2日)(参考 百人一首の手帖 小学館・HP千人万首・本宮町史)

   現本宮市にある安達太良神社
 
➡ また安達は安達絹(かたよりと呼ばれる高級絹)の産地で吾妻鏡にも文治5年(1189)平泉藤原基衡が毛越寺の本尊を仏師運慶に依頼した時膨大な財宝を謝礼として与えた中に安達絹1000疋と信夫毛地摺1000端の記述があるのです 1疋は長さ15.15m 幅65cmなので1000疋は15000m(15km)にもなるのには驚きです(本宮町史)  

国指定史跡 蛇の鼻御殿 本宮市 
   安達太良神社 安達太良山と相対して本宮市街地を一望できる 当社は久安2年(1146)安達太良山に鎮座していた飯豊和気・飯津比売・陽日温泉・禰宜大刀自各神と大名倉山山に鎮座していた宇奈己呂和気産霊二神(高皇産霊神・神皇産霊神)を合わせ祀り安達太良明神と称して安達郡の総鎮守とした野に始まる それまで本宮は駒の産地で本目・本牧といわれた安達の牧があった所で安達太良神社創建以降は本宮となったのです(神社栞) 後拾遺和歌集にも
          8月の駒迎えよめる
陸奥の 安達の駒は なつめども 
      けふあふ坂の 関までは来ぬ

とある
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