むかし見し 人をそ今は わすれゆく あふくま山の 麓はかりに         夫木和歌集 詠み人知れず
蚊遣火の 煙けぶたき あぶくまに よるはあつさも おぼえさりけり       和泉式部集 和泉 式部
あぶくまを いづれと人に とひつれば 勿来の関の あなたなりけり     夫木和歌集 詠み人知れず

 阿武隈山と言う単独の山はない。あるのは低い幾つもの山々が連なった所謂山系 山脈の総称なのである。北の端は宮城県南部の白石 丸森から南は茨城西部 栃木東部にまたがる。芭蕉も奥の細道で須賀川を前にして「・・・越え行くままに、あぶくま川を渡る。左に会津嶺高く、右に岩城 相馬 三春の庄、 常陸(茨城)・下野(栃木)の地をさかいて山つらなる・・・」と詠んだこの”山つらなる”が阿武隈山脈である。実際には会津嶺(磐梯山)は見えないのに堂々と書くところが芭蕉の面目躍如たる所だ。この山脈は福島県を浜通りと中通りに2分しているが、芭蕉も山脈を越えて遥か浜通りの相馬 岩城の地を想像してる。この山々には歴史あり 景観あり 伝説ありで中々バラエティーに富んでいるのです。ことに霊山(りょうぜん 825m) 宇津峰山(677m)は陸奥南朝の拠点として一時は足利尊氏を河内で打ち破り九州へ敗走させた北畠親房 鎮守将軍陸奥守顕家親子 弟顕信の悲劇の居城で、最後まで後醍醐天皇に忠誠尽くし1347年相前後して落城した所である。霊山の奇岩と紅葉は有名で県立公園に指定されている。更に相馬北部の鹿狼山(430m)から眼下に見る太平洋は絶品で運がよければ宮城県牡鹿半島金華山まで見えるらしい。ここにある広葉樹の原生林はふくしまの緑の百景にも選ばれている。又南部には夏井川渓谷の籠場の滝 其の支流江田川にある背戸峨廊の瀞や急流 新緑と紅葉は見事で 名付け親の詩人草野心平も「夢幻能」にその美しさを記してる。其の中で最高峰は中部にある一等三角点をもつ大滝根山(1193m)である。この山の麓には東洋一といわれるあぶくま鍾乳洞もあり中々見所があるのです。ご多分に漏れずこの辺も蝦夷の豪族大多鬼丸が坂上田村麻呂と激戦を交わしたとされる伝説の地で山の名前は其の名残であると言う。この辺りの田村麻呂人気の凄さをしめしている。因みにこの山脈東部にある旧田村郡の船引町 常葉町 大越町 滝根町 小野町(小野小町生誕伝説の町)は町村合併で田村市となり、三春町は未だに田村郡である。其の上郡山市田村町(これがまた広い町で頭に田村を付けた行政単位が16もあるのには驚く)徳定は田村麻呂誕生(天平宝字2年・758)と12才(宝亀元年・770)で京へ登るまでの生長伝承の地なのです。歴史は伝承を創れるが伝承からは勿論歴史を作れないのは承知の上です。然し三春町史には田村麻呂生誕伝承が詳細に載っていて面白い。田村麻呂伝承は東北各地に分布してるが既に延暦大戦の後背地であった此処田村郡に於ける伝承の濃密さは本願地京都は言うに及ばず全国最高なのである。それは「田村麻呂将軍の出生譚、生長の奇端、父子の対面、東夷征伐の奇跡・田村郡内の古社寺の草創、三春高柴木馬の物語、そして山川地名の殆ど総てが田村麻呂と関連するのは全国でも田村郡だけである」と書いている。父刈田麻呂と共に都へ登った幼名鶴丸は故郷田村の庄の名をとり田村麻呂と改めたのです。その後の活躍は御承知の通りで780年近衛将監、781年父鎮守将軍と陸奥同行、787年近衛少将、791年大伴弟麻呂を補佐し征東副使、793年征討副将軍として陸奥へ、796年陸奥出羽按察史・陸奥守、797年征夷大将軍(第一次東征)、798年清水寺造隆、801年第二次東征、802年胆沢城・アテルイ・モレ和睦、804年第三次東征、805年参議昇進、807右近衛大将、809年正三位、811年薨去(従二位)と彼の昇進は陸奥東征の功績であり桓武天皇の信頼の高さの証左でしょう。戦いに明け暮れた彼は自ら建立した法相宗清水寺帰依した{世界遺産)。清水寺境内に奥州市の有志による「北天の雄阿弖流為・母禮之稗」があるが陸奥に生まれ陸奥に関わり陸奥蝦夷の盟友阿弖流為・母禮の助命を嘆願し続けた彼にとっては誠に本懐とするところでしょう。そして彼の四男坂上浄野陸奥介が田村氏の祖でその子孫が代々陸奥に住み曾孫の古哲(田村右京太夫)が始めて田村氏を名乗り、後年三春潘城主となる田村氏となったというのだ。伝承が歴史を作ったようなところである。居城跡として田村神社まである。北畠顕家に従い功のあった17代田村輝顕が建立したと言う。戦国時代田村氏は三春町を本拠としていたが、綿々と未だに8世紀の田村麻呂が息ずいているのが何ともほほえましい阿武隈山脈なのである。
(平成15年4月7日)(参考 郡山の歴史 郡山市 阿武隈・奥久慈・八溝の山 随想舎 ふるさとの文化遺産・郷土資料辞典 人文社 三春町史 三春町 安積 歴史春秋社)
 

上左 伝坂上田村麻呂生誕の地の碑 郡山市田村町徳定 彼が産湯に使用したとされる産清水池の隣に平成22年9月建立 揮毫は京都音羽山清水寺森清範貫主で更に除幕式を執り行ったのです 彼は毎年今年の漢字を年末に書く方だがわざわざが来たのは清水寺は田村麻呂が創建した由緒があるからなのでしょう
 
抱上坂 
産清水
の脇の緩やかな坂道が赤子の田村麻呂を抱き上げた所と云う 
「目を凝らして睨めば猛獣も倒れ ニコッと笑えば赤児も笑う」
といわれた征夷のスーパー将軍の出生伝説の清水


  谷地権現  産清水の近で田村麻呂の母阿口陀媛を祀った神社   産清水の石碑 石碑には産清水と彫られている この湧き水は田村麻呂が産湯をつかた池 郡山市田村町徳定 日大工学部の南にある    あぶくま山