上2つ オセドウ遺蹟から大正12年に身の丈2・0mの人骨が発掘されたのです 縄文時代の男子平均身長が159cmの時代に40cmも大きい人物は長脛彦の墓に違いないとの噂が広がったのです 因みに現在の平均は171cm・明治時代は155cmです 記紀にある神話によると古代大和の先住豪族鳥見族安日彦と長脛彦の地に天孫族のニギハヤヒノ命(物部氏の祖)がやって来たので長脛彦は妹の鳥見耶比売を妃に差出した  その後日向族神日本磐余彦尊(神武天皇)が九州から攻め寄せてきた(蝦夷への東征と差別はここはら始まったのです)

 福島城祉 五所川原市相内 

下 吉田松陰遊賞の碑 うしろが十三湖
 国指定史跡福島城 五所川原市市浦相内
城は其の規模65万5千㎡を誇る中世以前では東北最大の城跡で外郭と一辺が200mの内郭からなってる 中世の頃の十三湊三津七湊の一つに指定され 津司もおかれるなど北国最大の湊町として栄え京都や平泉と肩をならべるほどの大きな港湾都市であった その栄華を誇るかのように十三湖周辺には福島城 唐川城 山王坊 水城跡(安東水軍の根拠地)等があり蝦夷管領をも勤めた安東氏の居城と伝えるが其の全容は未だ不明のようだ 又長脛彦の遺骨とも言われる縄文人骨が出土したオセドウ遺跡等もあり十三湊は本当に想像を駆り立てられ何度訪れても魅力的町である

左下 吉田松陰遊行の碑 五所川原市中泊町
市浦から国道339号線で中里町の十三湖の畔にある 彼は1851年(嘉永4)密かに東北の旅にでて北方海岸の防備視察した 翌年の旧暦3月4日にこの地を通り十三湖と岩木山の絶景に触れ「・・・真に好風景なり」と書き留めてる 確かに天気に恵まれれば十三湖に浮かぶ岩木山の姿は見事であろうと思われる 

下 十三街道
 県道12号線はここ亀が岡遺跡を通り市浦の十三湊まで続き十三街道ともいわれる ジュウサン街道と読むのかトサ街道と読むのでしょうか?

青森民謡弥三郎節発祥の碑
下相野観音堂境内 つがる市森田町
西津軽郡木造町下相野村(現つがる市森田)の百姓伊藤弥三郎が隣村妙堂崎大間村(現つがる市鶴田町)の万九郎から嫁をもらった 弥三郎の両親が貰ってきた嫁御だった だが弥三郎の両親は嫁を牛馬の様に朝から晩までこき使ったのです 村祭りの日にも髪油もつけさせず化粧すらさせなかった そして気に入らない嫁御へ朝な夕な嫁いびりが激しかった そして三度の飯さえもつめられれるようになった 肝心の弥三郎は気が小さく嫁の味方もせずただ静観するだけであった こんな両親のむごい仕打ちにとうとう嫁御は離縁させられたのでした これを見聞きした盛 有賀と云う人が津軽全般に亘る嫁いびりの悪習をなくしたいものだと考えて嫁御の身になった女性哀歌を作ったのではないかと森田村弥三郎節保存会の説明が彫られています  1番から10番までの嫁いびりの歌詞が何とも生々しく哀調があるのはご承知のとおりです

津輕 其の3
    
➡  鳥見族は奮戦空しく敗れ長脛彦は戦死したが安日彦は一族を引き連れ越(高志)国へ逃れそこで女真栄と結婚して津輕へと逃亡したという そこで寿速(スハヤ))を生み彼は油理台の首長だった豊岡姫の娘と結婚して寿久世(スキセ)を生んだのです この寿久世こそが蝦夷の祖先でその後の阿部氏安倍氏・安東氏・秋田氏の祖となったと言うのです 最果の遺跡から記紀の神話を連想する事が何とも楽しいではありませんか

オセドウ遺跡 長脛彦の墳墓?