秋田美人と言う表現があるがこれはどうも本当らしい。以前テレビで秋田美人を検証する番組があったが、その時の話では秋田の人は平均的日本人よりもメラニン色素が相当数少ない事j実を証明していた。色白の日本人も多いが秋田の方のそれは透明感があるのです。そこが違うのです。現に今回の旅で2度道を尋ねたがその若い女性2人ともが透明感のある白さは魅力的でした。秋田音頭と言う民謡にも
     秋田のおなご何してきれいだど 聞くだげ野暮だんす
     小野の小町の生まれ在所 おめはん知らねのぎゃ
                   ア〜ソレソレ♪
又ドンパン節には
     自慢を言うなら 負けないぞ
     米っこ本場で  酒本場
     秋田の杉なら  日本一
     小野の小町の  出たところ

      ドンドンパンパン どんぱんぱん〜♪
とあるのです。何やら北方系の民族の血が入ってるらしいのです。だからここ雄勝郡雄勝町小野の里世界三大美女と言われる楊貴妃・クレオパトラに並ぶ絶世の美女小野小町の故郷とされるのも不思議ではない所なのです。小野小町の誕生入滅の地とされる所は日本全国至る所にあるが、其の有力な一つが雄勝町だ。小野小町の正確な生没年月は不明だが凡そ821年(弘仁12年)頃出羽郡司小野良実(真)を父に生まれたと言うのだ(或は滝雄とも)。良実の父があの有名な小野篁である。その篁から7代前がご存知遣隋使(608年・609年)の小野妹子である。始祖の彼は近江国滋賀郡小野(現大津)出身なので小野姓を名乗るのだがこの小野氏一族は陸奥・出羽に何故か縁が深いのです。例えば小野牛養(724年鎮狄将軍)・同竹良(760年出羽守雄勝城築城)・永見(815年陸奥介征東副将軍)・滝雄(永見の子818年出羽守・小町の父?)・岑守(永見の子815年陸奥守)・(岑守の子834年陸奥守)・良実(篁の子・小町の父?)・宗成(828年?出羽守)・千株(840年・出羽守)・興道(846年陸奥守)・石雄(官職不明・814年陸奥在住)・春枝(856年鎮守将軍・865年陸奥介)・春風(876年鎮守将軍・元慶の乱鎮圧)・春泉(878年出羽権椽)当柯(滝雄の子出羽介)・恒柯(滝雄の子)・吉子(良実の子・小町?)等でる。これだけ多くの小野一族が都から来て現地妻の秋田美人と結婚すれば小町位の美人が出ても不思議ではないでしょう。更にこの名族は小野妹子以来海外へ派遣される一族でもあるのです。小野妹子(遣隋使)・毛野(遣新羅使)・馬飼(遣新羅使)・田守(遣新羅使・遣渤海使)・石根(遣唐使)・滋野(遣唐使)・篁(遣唐使を拒否隠岐へ1年流される)等である。孫なのです。
又花札の雨の柳に蛙で有名な日本三蹟(和様書道)の一人小野道風(894〜966年)も篁の孫にあたる。前置きが長くなりましたが小野小町は天皇(仁明)の更衣(天皇のお着せ替えをする女官)だったようだ。彼女は13歳ごろ都に登り元号承和の頃に官女として宮中に出仕して仁明天皇の寵愛をうけ更衣となったらしい。更衣は身分の高い女御の場合は『局』と言う一戸建てを与えられるが、中以下は集合住宅でその別称が『后町』と呼ばれていた。だからそこに住む更衣は自分の一族の姓や出身地の名をつけて「三国町」とか「三条町」とか呼ばれていたと言う。「小野町」もその通りだが先に同姓の者が居たか又は姉がすでに小野町を名乗っていたので「小町」としたらしのです。彼女は絶世の美女だっただけに根も葉もないスキャンダルや風評に耐えねばならぬはご存知の通りです。それは昔も今も変わらない有名料なのです。。その代表が『拒む女』としての小町である。あの言い寄る男『深草の少将』に『私を慕うなら毎夜一本ずつ百本の芍薬を私の庭に植えてください』との百夜通いの無理な注文を出したが彼は彼女からの『OK』の返事もらうために毎夜芍薬を運んで植え続け99本まで来て最後の一本となった。其の夜は生憎の土砂降りなので従者が止めるのも聞かず是を最後に彼女と結婚できることを夢見て出かけた。然し不幸にも増水した川に橋もろとも流されてしまったのです。このように無理難題を押し付け容易に男を近づけない『拒む小町』に後世の野次馬庶民は面白可笑しく彼女の肉体的欠陥まで吹聴した。『彼女には膣がない』と言うのだ。江戸川柳には
     とは知らず 開かずの門へ 九十九夜

等と真に失礼なデマにまで発展した。 又糸を通す穴のない針を「小町針」などと呼ぶようになったのです。然し彼女程の才色兼備の女性をほっとく人はないでしょう。案の定仁明天皇をはじめ安倍清行・僧正遍照・小野貞樹・文屋康秀等との贈答歌に有るように男性遍歴も人並み以上にはあったはずである。然しその華やかな時は長くは続かないのも世の習いなのです。加齢による美貌の衰えとともに潮が引くように男も去って行くのも世の常である。残るのは老醜の容貌と孤独と寂寥感だけである。晩年ここ小野の里の岩屋堂の洞窟で92歳で亡くなったという。然し各地には野垂れ死にの伝説も数多いのです。彼女の歌を詠むとあの平家物語のイントロを想像させるのです。奢る平家と小町の晩年は真に人生の諸行無常を我々に示唆してくれるのです。

小野の里(八十島) 其の2

昔  今の役内川はこの辺りを流れていたと言う 川が岩山を洗い流し往時は数多くの小島を残したのでこの辺り一帯は八十島と呼ばれるのです 其の中で今も残っているのが二ツ森です 瓢箪形の森で手前の大きい方が男森小さいほうが女森と言う 深草の少将と小野小町の墓比翼塚とも言う この森には数多くの神社や祠が祀られており男森には小町の母が祭ったと言う弁財天もある 麓には良実が建立した走り明神のお宮がある 参考 雄勝町観光協会パンフ

深草の少将が小町をしたって都から東下り大野の郷に住んでいた 少将はご返事橋のたもとに住む梨木の姥を頼んで小町に恋文を送り其の返事を待っていたと言う事からこの辺り一帯の地名となった 小町の館の桐木田館と深草の少将の館長鮮寺の中間にある 結婚の返事をもらうため100夜通いの最終日にこの橋が流されて彼は溺死したと言う 道を尋ねた年配のおじさんにオッペチの意味を聞いたら「アイヌ語でないの」と独特の秋田弁で話してくれた  大日本地名辞書には「院内湯沢といふ駅は出羽郡司好美(良実)の住居なるよし 其小野は小野小町出生の所なりといへり 小野の宮あり その流れといったふる家は女子ばかり産れて男子生さず 代々聟をとって相続する事今もかはらず 又田畑の畔に芍薬九十九株あり 小町の植えられし種といひつたへき」と云う興味深い記述がる