鹿角郡は古代には上津野(かづの)村と呼ばれていた。この地の錦木塚・狭布の里は海浜の象潟と並ぶ出羽一級の歌枕ではあるが出羽・陸奥最果ての賊地中の賊地にあると言うこのミスマッチには正に歴史の摩訶不思議を垣間見る心地なのだ この美しいくも悲しい人間味溢れる伝説の発生は日本書紀の蝦夷の性格の記述からは想像できないのです『・・・其(か)の東夷識姓(たましい)暴強(あらびこわくて)凌犯(しのぎおかす)を宗となす。村に長(ひとこのかみ)なく邑に首(おびと)なし 各封堺(さかい)を貪りて相盗略(かす)む 亦(また)山に邪神(あしきかみ)あり 郊(の)に姦鬼(かたましきおにあり 衝(ちまた)に遮(さえぎり)径(みち)に塞(ふたが)りて多く人を苦しまむ その東夷の中に蝦夷是れ尤も強し 男女交居て父子別なし・・・恩(めぐみ)を承けては則ち忘れ怨(あだ)を見ては必ず報ゆ・・・』と 侵略者はあらゆる下劣な単語を羅列して蝦夷がいかに野蛮且つ野卑な民族で文化的大和民族との差異を強調しているのです。然しこの歌枕伝説を見ればこの記述がいかに出鱈目であるか分かるはずだ。然もここは元慶2年(878年)秋田城司良 岑近の苛政に対する土着の蝦夷が遂に反乱(元慶の乱)を起こした秋田城下賊地12村の一つで奥羽山脈最奥地の賊地なのだ。その強靭さは次の文で分かる。 陸奥国風土記逸文に『磐城の国造磐城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので日本武尊が征討軍としてやってきた そこで蝦夷は津軽の蝦夷の援護を要請したので日本武尊は非常に苦戦した』とある 又斉明5年(659)日本から唐国に蝦夷2人を献上したことが日本書紀にある。そのやり取りが大変興味深いのです。天子『『これらの蝦夷の国はどの方角にあるか?』 使者『国は東北にある』 天子『蝦夷は何種類あるか?』 使者『3種類ある 一番遠いのが都加留(つがる) 次が麁蝦夷(あらえびす)一番ちかいのが熟蝦夷(にぎえびす)という これは熟蝦夷である 年毎に本国に入貢している』 天子『其の国に五穀はあるか』 使者『ない 肉を食って生活してる』 天子『国には屋舎があるか?』使者『ない 深い山の中で樹の本に住んでいる』 天子『見る所蝦夷の身面(むくろ)はひどく異(かわっていて奇怪しごくである』 とあるのだ。つまり一番遠くにあってそして一番強いのが津軽の蝦夷=都加留で上津野の蝦夷も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えれば直ぐ出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。そうでなければ都の高貴な方々がこんな賊地の伝説を歌に詠む訳けがないし都に受け入れられる訳もない。 元慶の乱に於いて鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)と言うわざわざ岩手県を迂回して最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ。鹿角を説得できれば他の11の反乱村も説得可能だったのだ。更に上津野蝦夷の強さの伝承は日本書紀にある上毛野田道(かみけぬのたみち)将軍の記述である。『仁徳紀55年蝦夷叛けり 田道を遣わして撃たしむ 即ち蝦夷の為に敗られて伊峙水門に死(みう)せぬ 時に従者(つかいびと)有りて田道の手纒(たまき)を取り得て其の妻に與ふ 乃(すなわち)手纒を抱きて縊(わなな)き死ぬ 時人聞きて流涕(かなし)む・・・』とある。毛野氏は東国坂東の豪族で上毛野氏はその宗族である(群馬県を上野 栃木県を下野と呼ぶのはその流れであり鬼怒川は毛野川から来てる) 朝廷の命を受けて主に蝦夷征伐と東北経営を任された。其の将軍が今から凡そ1600年前ここ上津野村迄東征して来たが伊峙水門(いじのみなと・米代川流域に石野村がる)で討ち死にしたのだ。実際鹿角の申(さる)が野と言う所に田道将軍を祀る猿賀神社があり其の前に『田道将軍戦没の地』の石碑まで立っているのです これは沿岸の蝦夷征討阿倍比羅夫から遡る事300年も前の話なのだ。でも伊峙の水門については宮城県石巻 茨城県夷針郡等の説が在り定説はないがそんな事はさて置いてもそれに数十倍勝る古代の夢を与えてくれます。そして最後に古代鹿角蝦夷の高度な文明を証明する世界的発見がこの地にあったのです。ご存知国指定特別史跡大湯環状列石の謎である。鹿角蝦夷の祖先である当地の縄文人が残した遺跡こそあの日本書紀に記述された蝦夷観を覆す証拠なのです。ここにあるストーンサークルの目的は墓石説・祭祀説等未だ不明だが発掘者喜田博士は『我国ニ例ナキ珍シキモノニシテ其ノ形式ニ於イテ殆ド類似ヲ知ラズ・・・現在ニ於イテハ全ク特異ノ形態ニシテ謂ヒ得ベクンバ大湯環状列石籬ト称スベキカ・・・・』と述べている。古代蝦夷の祖で更に4000年以上も前に遡る縄文人がこの様な素晴らしい文明を持っている事は鹿角蝦夷も押して知るべしだろう。鹿角は真に古代ロマンの地なのです。惜しむらくは蝦夷が文字を持たなかった事である(平成17年11月12日)
(参考 鹿角市史 古代東北の兵乱 歴史春秋社 蝦夷 吉川弘文館  大日本地名辞典 秋田県の地名 平凡社 秋田県の不思議事典 新人物往来社 菅江真澄遊覧記 兜ス凡社 街道を行く29 朝日新聞社 新青森市史資料編)

   
   錦木塚・狭布の里 其の2

狭布の細布で織られた唯一本物の羽織
唯一のこされた狭布の細布と鳥の毛を混ぜて織った布を使い仕立てたと云う唯一本物の羽織です 背ばかり隠して胸までかからぬから
胸合わじとうや とままならぬ恋の歌に詠まれたに違いない 確かにこの展示物を見ると前が空いていて左右の前が重なりませんね  胸合わじですね
 錦木地区市民センター錦木塚展示室提供